第75話 利助と小助

文字数 2,700文字

 晋作達が江戸に向かっていたころ、十八歳になった伊藤利助は京の都に滞在していた。
 寅次郎が条約問題にゆれる京の形勢を探るために、遊学生を京に派遣すべきことを重役の周布政之助に提言したことが契機となり、長州藩は六名の藩士を京に形勢視察に行かせることを正式決定し、その内の一人に利助が選ばれた。
 京に上った利助達は、在野の尊王攘夷志士であった梅田雲浜や梁川星巌、頼三樹三郎などに接触して京の情勢を探っていた。
 この日、利助は同じく視察員に選ばれた山縣小助(後の山縣有朋)と供に、烏丸御池上ルにあった梅田雲浜の屋敷に足を運んでいた。
「我が屋敷によくおいで下さったな、利助殿に小助殿」
 長州人好きの雲浜は、利助達が自身を訪ねてきてくれたことで大層上機嫌な様子だ。
「梅田殿にそねー仰って頂けるとは光栄の極みであります」
 小助が不愛想な表情で返答する。
「わしらが長州から京に参ったのは他でもない、京の都の内情を探索するためであります。幕府が帝のお許しを得ることなく勝手にメリケンとの条約の調印に踏み切ったことで、この京の都は風雲急を告げちょります。また江戸でも違勅調印をした大老の井伊掃部頭に異を唱えた越前公、尾張公、水戸の老公などが蟄居謹慎の憂き目におうたとか。こねーな情勢の中でわしらは一体どねーすればええのか、それを見定めるために梅田殿のお考えをぜひ承りたく存じちょります」
 小助が淡々と屋敷訪問の目的を述べると梅田は笑いながら、
「結構結構。儂如きの意見でよろしければ喜んで申し上げましょう」
 と言って自身の考えを述べ始めた。
「井伊掃部頭が帝のご意思をないがしろにした大馬鹿者であることは申すまでもないが、かといって諸侯も全くあてにならぬとゆうのが儂の見解じゃ。山縣殿も申しておった通り、越前公や尾張公、水戸の老公といった一橋派の諸侯が悉く蟄居謹慎と相成り、薩摩の斉彬公も亡くなられ、あとに残ったのがみな日和見で無知な諸侯ばかりという有様ではこの神州は滅び去るじゃろう。今こそ儂等のような草莽の志士が尊王攘夷の元に立ち上がって掃部頭を失脚させ、条約を破棄し、異人共から皇国を、帝をお守りすることこそ急務であると儂は考えておる」
 雲浜が自身の考えを述べ終えると、小助はなるほどなるほどと言って納得している。
「梅田殿! 一つお尋ねしてもええでしょうか?」
 雲浜の話が終わった隙を見計らって利助が間髪入れずに尋ねてきた。
「何じゃ? 利助殿」
 雲浜は少し面食らっているようだ。
「ここ最近京の公卿達の間では、近衛様や鷹司様、一条様といった摂関家の面々の献言に従って、帝が水戸藩に直接密勅を下される予定じゃと噂になっちょるみたいですが、これは真のことなのでありましょうか? 京の公卿達と深く通じちょる梅田殿ならば何かご存じなのではないでしょうか?」
 利助は密勅の真相を早く知りたくてたまらなかったのか、ひどくそわそわしている。
「何故お主がそれを知って……直接関わったわけでないからはっきりとしたことは申せんが、どうやら本当のことで間違いないようじゃ」
 密勅の話題を出された雲浜はそれまでの笑顔はどこへやら、急に険しい表情となって辺りに盗み聞ぎしている者がいないかどうか確かめ始めた。
「帝は元々譲位することで幕府の違勅調印に抗議なさるおつもりだったのじゃが、それを近衛様や鷹司様に止められたと以前大原卿からお聞きしたことがある。またその代わりに、御三家の一つで尊王攘夷を重んじる水戸藩に幕政改革の勅を下すことを暗に帝に仄めかされたとか」
 雲浜は盗み聞きしている者がいないことをしっかり確認した上で、密勅の事について説明し始めるも以前表情は険しいままだ。
「だが今の水戸藩に密勅を下したところで何も事態は解決しないじゃろう。斉昭公が失脚した水戸藩では掃部頭や異人共に到底太刀打ちできまい。やはり草莽の志士が立ち上がるより他手立てはないのじゃ」
 雲浜は草莽の志士だけが最後の希望だと言わんばかりの口調で密勅の話を締め括ると、
「ところでお主らは久坂玄瑞殿が今この京におることはご存じか? なんでも帝への忠勤に励むために藩に無断で江戸を抜け出してきたそうな」
 と突然話題を変えてきた。
「いんや、初めて聞きました! まさか久坂さんがこの京におったとは……寝耳に水とはこのことですかのう」
 寅次郎から久坂が江戸に遊学中である聞かされていた利助は驚きのあまり、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「久坂殿とは何度か会って話をしたが、なかなかの偉丈夫であったのう。さすが寅次郎に防長第一流の人物と見込まれただけのことはある。これからの日本は彼のような志士によって動いていくことになるじゃろう。お主らもよく見習うがよい」
 雲浜は久坂を称賛すると利助達にもう夜更けだから早く藩邸に戻るよう促したため、利助達はその言葉に従って屋敷をあとにした。





「利助、おめぇは何故、京の公卿の間で水戸藩に密勅が下されるかもしれんっちゅうことが噂になっちょるって知っとるんじゃ? 一体どこからそねーな報せを手に入れたんじゃ?」
 雲浜の屋敷から河原町にある長州藩邸への帰路の途中、小助が不機嫌そうに尋ねた。
「一昨日の晩、近藤茂左衛門殿の屋敷を訪ねた時に、屋敷の者達が密勅のことを話ちょるのをこっそり盗み聞きしてな、それで知った!」
 利助は密勅の噂が本当である確証を得られたことでうれしそうにしている。
「それなら何故先にわしらに知らせんかった? 一人だけ抜け駆けするつもりじゃったのか?」
 利助から訳を聞いた小助はますます不機嫌になる。
「別にそねーな訳ではないっちゃ! 盗み聞きした時点では噂が誠なのか否か、はっきりせんかったから言えんかっただけじゃ! どうか誤解せんでくれ!」 
 利助は不機嫌そうにしている小助を懸命に宥めつつ、
「そういえばわしが以前話した松下村塾の件は考えてくれたかのう?」 
 と別の話題に話をすり替えた。
「それについては何度もゆうたはずじゃ。わしは槍の腕一本で名を挙げると決めちょるけぇ、松下村塾に入塾するつもりはないと」 
 小助はまだ腹の虫が収まらなかったのか、吐き捨てるように言う。
「別に吉田寅次郎の世話にならずとも、我が殿や帝のために働くことはできる。長州の足軽中間がみな無条件で村塾に入るなどと思うたら大間違いじゃぞ」
 



 利助との問答から数日後、小助は京にいた玄瑞と出会い、彼に感化されたことで松下村塾への入塾を決意することとなる。
 そして寅次郎の門下生であったことを終生誇り続けることになるのだが、この時の彼にはまだ知る由もなかった。
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