第133話 対馬一件

文字数 2,442文字

 文久元(一八六一)年六月。
 江戸麻布の長州屋敷付近にある酒楼「三松屋」にて、久坂玄瑞は薩摩藩士の樺山三円と水戸藩士の片岡為之允等と供に酒を飲みながら国事の事について語り合って、長州と薩摩、水戸の有志の士の横の結びつきを強めようとしていた。
「対馬でのオロシア人共の横暴は真に許しがたい! 今すぐ武力を以ってして奴らを叩き出すべきじゃ!」
 酒に酔った勢いで片岡が高らかに叫ぶ。
「奴らは今年の二月に軍艦で対馬に乗り込んできてからというもの、食料や武器、薪炭を村々の百姓から強奪するだけに飽き足らず、遂には領地の一部を不法に占拠し、兵が泊まるための宿舎や練兵を行うための空地、武器を作るための建物などをそこに拵えて、まるで対馬が最初から自国のものであったかのようにふんぞり返っていると聞き及ぶ! これは天をも恐れぬ暴挙じゃ! このままでは対馬がオロシアのものとなるのも時の問題であろう!」
 片岡は盃に酒を注ぎながらオロシアの批判を口にする。
「片岡殿のゆわれとる通りでごわす!」
 片岡同様樺山も酒に酔っているのか、顔が真っ赤だ。
「オロシアは対馬を足掛かりにしてこん神州を我が物にしようと企んじょるに違いなか! もし対馬が完全に奴らのものとなれば、次は九州、そん次は中国、そん次は四国と奴らは欲の赴くままにこん国を蹂躙するでごわす! そんなる前に奴らを対馬から打ち払わねばなり申さん!」
 樺山は盃に酒を溢れんばかりに注ぐとそれを一気に飲み干した。
「しかしオロシア人共の横暴も許しがたいが、それ以上に対馬家中の腰抜けぶりがひどくて敵わん!」
 片岡が非難の矛先をオロシア人から対馬家中に変える。
「皇国のため、天子様のためにもオロシア人は打ち払わねばならんと言っておきながら、自分達では何とかしようとせず、ただひたすら幕府の指図を仰ぐばかりで情けないことこの上ない! それに奴ら、この前我等が横議横行のために向柳原にある対馬藩邸を訪れたときには、『貴様らのような連中の助けなど不要! さっさと帰るがよい!』などとほざいて我等を門前払いしおった! 対馬家中は揃いも揃って臆病者のくせして気位ばかりは無駄に高い、糞の役にも立たぬ連中じゃ! 先月高輪東禅寺においてエゲレス人共に天誅を下した我が水戸の同志の爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいじゃ!」
 片岡は盃に注いだ酒をぐびぐび飲みながら対馬家中の悪口を言っている。
「対馬でのオロシア人の横暴について、久坂殿はどげん考えとるんでごわどか?」
 ずっと黙って口を開かない久坂に対し樺山が尋ねた。
「わしはこの一件を機にオロシアと戦をし、皇国の武備拡張を進めるべきじゃと思うとります」
 片岡や樺山と違って酒を余り飲んでいない久坂は冷静そのものだ。
「片岡殿が申されとるとおり、オロシア人の横暴も対馬家中の腑抜けぶりも目に余るのは確かであります。それに対馬家中が当てにしとる幕府も頼りなく、オロシア人の横暴を一切詰ることができぬ様な有様で、はっきりゆうて八方塞がりになっとるのであります。じゃけんこれを機にあえてオロシアとの戦争に踏み切り、その衝撃で皇国の武備拡張を進め、腰抜けの対馬家中や幕府、さらに他の諸侯達の目を覚ますことができれば、この神州を外夷から守りきることができるやもしれませぬ。対馬にオロシア人が居座るようになってからっちゅうもの、対馬から比較的近い所にある我が長州の領土、馬関にもエゲレスやオロシアの軍艦が盛んにやってきては水や薪炭を要求しとる。今は水や薪炭の要求だけで済んじょるが、虎狼のような外夷のこと、きっと馬関を、いんや長州そのものを対馬のように掠め取る算段でおりましょう。そねぇなことになる前に奴らを叩かねば、我が長州も皇国も滅亡は免れませぬ。」
 久坂が対馬一件に対する持論を述べると、片岡は笑いながら、
「流石は久坂殿! 対馬の腰抜け共とは違いますなあ」
 と感想を述べると続けて、
「しかし久坂殿はそうお考えであっても、長州そのものは果たしてどうであろうかな?」
 と疑問を投げかけた。
「それはどねぇ意味でありますかな? 片岡殿」
 久坂が怖い顔をして尋ねる。
「長州は確か長井雅樂の唱える『航海遠略策』を藩是にして、公武一和、開国和親を目指しているのでは御座いませんでしたかな? 一月ほど前に長州は長井雅樂を京に上洛させ、議奏の正親町三条実愛様に『航海遠略策』の建白書を出させて盛んに公武一和、開国和親を説かせるだけに飽き足らず、今度はこの江戸においても老中の安藤対馬守や久世大和守に『航海遠略策』を説かせるつもりでいると聞き及んでおる。いくら久坂殿が破約攘夷を唱えても、肝心の長州そのものが幕府に媚びているようでは意味がないのではありませぬかな?」
 片岡が今の長州の現状について語ると、久坂は怖い顔のまま、
「確かに片岡殿が申されとる通り、今の長州は長井雅樂が『航海遠略策』などとほざいて御殿様をたぶらかし、過ちの道を突き進んどるのが現状であります。長井は長州を破滅に追いやりかねない奸臣、この皇国から外夷の脅威を取り除くより先にまずこの長井をどねぇせんことにはいけんことも重々承知しとります。じゃけぇわしは近いうちにこの長井に会うて、『航海遠略策』っちゅう愚策を捨てさせるつもりでいるのであります」
 と長井の説得をするつもりであることを語るのであった。
「長州もいろいろ大変でごわんどな」
 樺山が長州の現状に同情を示す。
「薩摩もかつて斉彬公と斉興公が争われて国が二分されたことがあり申したが、今は国父様が斉彬公のご意思を継いで、藩を上げての率兵上京を行うと約束されたち、島津家中は一つにまとまっているでごわす。長州も薩摩と同じように必ず正道を歩めるようになるでごわんど、諦めてはいかん」
 樺山が久坂を励まそうとしている。
「ありがとう存じます。長州も必ずや正道を歩めるように尽力するつもりでありますけぇ、どうかよろしく頼みます」
 久坂が樺山に礼を言う。
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