第127話 エゲレスへの夢

文字数 1,750文字

 晋作が諸国を遊歴していたころ、桜田にある長州藩邸の長屋の一室で伊藤利助は書物を読んでいた。
 利助が読んでいる書物は『元寇紀略』といい、思誠塾の塾主である大橋訥庵からもらった本であり、かなり読みこんだためか本の表紙も中の紙もぼろぼろに擦り切れていた。
 利助が時も忘れて熱心に『元寇紀略』を読んでいると部屋の扉が開いて、
「今戻ったぞ、利助」
 と言って同居人である桂小五郎が部屋の中に入ってきた。
「桂さん! もう戻って来られたんですか! 戻ってくるのは夜明けごろじゃちゆうてたのに」
 本に夢中になってすっかり小五郎のことを忘れていた利助が驚いた顔をして言う。
「ああ、今日の水戸との会合は思ったよりも早く終わったのでな」
 澄まし顔で小五郎が答える。
「おめぇこそ今日も思誠塾の大橋訥庵先生の所に行っちょるもんじゃだと思うとったんじゃが、違ったようじゃのう」
「訥庵先生はしばらくの間、浅草にある宇都宮藩邸にお出かけになられるそうなので塾は休みです」
 利助は小五郎の問いに答えると再び『元寇紀略』を読み始めた。
「ところで利助、訥庵先生は普段塾でどねぇなことをお話しされとるんじゃ? 今日の水戸との会合でも訥庵先生の名が出てきたんで少し気になっての」
 小五郎が尋ねる。
「ほとんどが幕政に対する批判ですかのう。あとは皇国の歴史や朱子学の話も多いかと」
 利助が小五郎の問いに答えた。
「そうか。そこら辺土の頭でっかちの儒学者と何らかわらぬか……」
 小五郎があからさまに落胆すると、利助は、
「訥庵先生はまっこと素晴らしい御方じゃとわしは思うとります! 先生が以前仰れとりました! 幕府内の俗吏共が外夷の力を恐れて通商条約を結んだせいで物価は騰貴し、細民は困窮して徒に天下の不安を煽っただけに終わったにも関わらず、当の幕府は攘夷を断行することもなく、朝廷の意を無視してただひたすら外夷にこびへつらっとると! また俗吏共のせいで水戸に下った密勅も雲散霧消して、水戸藩内の騒擾で終わってしまったと! このままでは幕府も朝廷も立ち行かなくなるから、今こそ朝廷が諸侯や幕府に攘夷断行の勅命を下して外夷を打ち払わねばいけんと! わしは先生の話を聞いて目から鱗が落ちました! 今こそ攘夷を断行すべき時なのです! 今攘夷を断行せずしていつ攘夷を断行するというんか!」
 とむきになって小五郎に反論した。
「少し頭を冷やせ、利助。訥庵に感化されすぎじゃぞ」
 小五郎が呆れたような口調で言う。
「外夷は打ち払わねばいけんが、急いては事を仕損じてしまう。まずは水戸や薩摩、土佐、越前などの有志の者たちと結束をはかり、その上で幕府単独による政ではなく有志の諸侯による合議で政を執り行う仕組みを帝の勅命で定めさせることこそが一番の方策なのじゃ。今の幕府があてにならぬ以上、藩の垣根を越えて有志の諸侯が結束するより他に攘夷を行う手立てはない。諸侯が一丸とならねば攘夷など夢のまた夢なのじゃ」
 小五郎が利助に諭すようにして語ると、利助は内心不満に思いながらも、
「どうもすみません、桂さん。少し熱くなりました」
 としぶしぶ謝った。
「それにおめぇにはいつの日かエゲレスに行くっちゅう夢があるんじゃなかったんか? それじゃったら訥庵の所に通うよりも西洋の文物を記した書物を読んどる方がええんじゃないんか?」
 利助が過去にエゲレスの話をしていたことを思い出した桂が尋ねてくる。
「エゲレスに行きたいです。エゲレスには石炭を動力にして一日に何十里も陸の上を移動できる乗り物や、道も家も橋も全て石で作られている町が至る所にあると聞き及んじょりますけぇ、絶対にそれらを見とう思うとります。それにエゲレスの女子は肌が白く、乳も尻も日本の女子よりずっと大きいと聞いとりますけぇ、そねぇ別嬪な女子を抱かずには死んでも死に切れませぬ。この神国を乗っ取ろうと画策しとる外夷は許しがたいですが、海の向こうの世界には興味があります」
 利助はエゲレスへの情熱を以前久坂から聞いたエゲレスの話を思い出しながら語った。
「そうじゃろう。じゃったら今自分がすべきことは何か今一度冷静になって考えてみんさい。血気に逸るのは止めんさい」
 桂が利助に説教すると、利助は黙ったまま不満顔でこくっと頷いた。
 


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