第131話 長井の建白

文字数 1,929文字

 その頃、萩城の本丸御殿では直目付の長井雅樂が藩主の毛利慶親の元に参上して、自身の意見を建白していた。
「本日お殿様の元に参りましたんは他でもない、儂の考えとる『航海遠略策』を是非わが長州の藩是にして頂きたく参上した次第であります」
 長井が深々と平伏しながら慶親に申し上げると、慶親は、
「面を上げよ、長井」
 と言って長井に顔を上げさせてから、
「周布から触りだけは聞いとる。『航海遠略策』は公武一和を以って天下を治め、航海遠略を以って海外を制するっちゅうお主の兼ねてからの持論であったな。しかし今の世は武士や公卿は勿論のこと、百姓も町人もみな口を揃えて破約攘夷、破約攘夷とゆうとるのが現状じゃぞ。我が家中においても破約攘夷こそ是であるとゆうて憚らぬ者が少なくない。そねぇな状況で果たして『航海遠略策』を藩是にすることなどできるんか?」
 と難しい顔をして尋ねた。
「そねぇな状況じゃけぇ、我等毛利家が『航海遠略策』を藩是にした上で天下に乗り出さねばいけんのであります!」
 長井は自信満々に言うと続けて、
「数百年の太平により武道が地に堕ち、武備が弛廃したことで外夷の恐喝に屈して、軽易に条約を結び今日のような状況に陥ったことは真に恥ずべきことではありますが、これも太平の余幣、今更致し方のないことであります! じゃがそれをよく承知せずにただ徒に破約攘夷を申して得意になっとる者がようけおり、それにより悲憤慷慨を口にして血気に逸る者達を益々付け上がらせております! もし本当に破約攘夷などが行われれば外夷に無謀な戦争を仕掛けることと相成りましょう! 儂に戦争を忌む心などないが、戦はそもそも国の大事存亡に関わることけぇ、深慮遠謀してしかるべきなのであり軽易に起こしてはいけんのであります! ましてや数百年の太平を貪ってきよった武士ばかりしかおらん今の世においては尚更のことであります! また外夷共は航海に熟し、利器を以って数万里の海路を不日に駛行し、数十年航海を業とした国柄故、船数も多く、この皇国の海路にも熟しておるけぇ、もし外夷と戦争になれば要津に出没し、府城をかすめ取られるは必定のことであります! また六十余州の四分の三は海国であるけぇ、夷艦の害を受け壊滅することは避けられず、残りの四分の一の海路不通の国だけで京の都を守ることは到底叶わぬけぇ、帝のおわす京が外夷共に踏み荒らされることと相成りましょう!」
 と『航海遠略策』を藩是にすべき理由について語りだした。
「そもそも鎖国はかれこれ三百年前に島原の乱を機に徳川幕府が厳重に仰せつけられた法であり、それ以前は夷人共が内地に滞留することが許されとりました! 天朝が御隆盛の時は京師に鴻臚館が建てられとった位じゃけぇ、鎖国は決して皇国の旧法っちゅうわけではないのであります! 伊勢神宮の御宣誓にも『天日の照臨する所は皇化を布き及ぼし賜うべし』とあるけぇ、天日の照臨なし賜える所は悉く知ろしめすべきであり、鎖国などと申す儀は神慮に叶わぬのであります! 以上からして今儂等が為すべきことは早急に航海を開き、軍艦・大砲・銃の数を整え、武威を海外に振るうことであります! そしてこれらを実行するためには朝廷と幕府間のわだかまりを解消して公武一和を成し遂げることが必要不可欠であり、もしこのまま朝廷と幕府がいがみ合い続けるのであれば航海遠略など夢のまた夢であり、ただ外夷を徒に喜ばすだけで終わるのであります! また幕府と朝廷の間を取り持てるんは平城帝の皇子であった阿保親王の末裔たる我が毛利家をおいて他になく、今こそ長州人が立ち上がる時じゃと儂は思うのであります!」
 長井が『航海遠略策』の妥当性についてすべて語り終えると、慶親は大層上機嫌で、
「おもしろき策じゃな、長井。定広だけでなくあの清風も一目置いていただけのことはあるのう。こねぇなことならもっと早くお主を直目付に就けるべきじゃった!」
 と長井のことを称賛した。
「お殿様からお褒めの言葉を頂き光栄の極みであります!」
 慶親から褒められた長井も満更でもない様子でいる。
「相分かった。お主の『航海遠略策』を我が長州の藩是とするんを認めよう。これより一月ほど後に萩を出立して、京におわす帝や江戸におるご老中方に『航海遠略策』を以って公武周旋を図るのじゃ。お主が『航海遠略策』を説いた後に儂も公武周旋の為に京と江戸に赴くつもりじゃけぇ、その心づもりでおれ」
 慶親が正式に『航海遠略策』を採用することに決めると、長井はうれしさの余り、
「ありがたき幸せであります! この不肖長井、お殿様のため、長州のため、皇国のために身命を賭して働く所存であります!」
 と涙を流しながら誓った。

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