第58話 ナポレオン討論

文字数 3,818文字

 安政四(一八五七)年九月。 
 晋作が寅次郎の松下村塾に入門してから一月が過ぎた。 
 晋作は明倫館の講義の合間を縫っては松本村の村塾へと足を運び、久坂や伊藤などの他の塾生等と供に寅次郎の講義を聴いたり、またある時は寅次郎も交えて討論したり、またある時は課業作文を書いたりして日々を過ごしていた。
 この日も晋作は寅次郎や同じ塾生である久坂や伊藤、そして品川弥二郎等と供に、フランスの英雄ナポレオンの偉業について討論をしていた。
「ナポレオンがエゲレスを中心とした連合軍に負け、エルバ島に配流となったにも関わらず、そこから抜け出して再び権力の座に返り咲いたのは、かの後醍醐帝が隠岐島に配流されながらも、不屈の志で島を脱出して、そして終いには北条氏を打倒したことにも匹敵すると僕は思うちょる!」
 ナポレオンと後醍醐帝を重ね合わせている久坂は、いつにも増してやる気に満ち溢れている。
「じゃが支配欲に溺れて自らが帝となり、イュウロッパ全土を掌握しようと戦を繰り返して国と民を疲弊させ、その果てに自身の身を滅ぼしたのは自業自得と言わざる負えん。過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、正に彼のためにある言とゆうても過言ではない」
 久坂はナポレオンを批判する形で人物評を締めくくった。本来慎重な性格の久坂は、手放しでナポレオンのことを称賛することはできなかった。
「久坂君のゆうちょる通り、確かにナポレオンは野心が余りにも強すぎた為に、その晩節を汚すことと相成った。じゃが彼は志さえあれば、例え身分が低くとも偉業を成すことができるちゅうことを証明したこともまた真実なのであります」
 寅次郎が久坂の言に異を唱える。
「まだコルシカ出身の一介の将兵に過ぎなかった彼が、当時オーストリアの圧政下にあったイタリアを解放することができたんは、ひとえに強い志があったからなのであります! 彼のその志はフレーヘードと呼ぶべきものであり、フレーヘードこそ彼自身を体現した言葉ちゅうても差し支えないのであります!」
 寅次郎は自身の言を述べると、久坂以外の塾生達に、何か申したきことがあったら申せと言って、発言を促した。
「フレーヘードとは一体どねーな意味の言葉なのでしょうか? 先生」
 寅次郎に促され、齢一五の足軽である品川がきょとんした表情で寅次郎に尋ねる。村塾に入塾してまだ日も浅く、学問に疎かった品川は討論についていけないようだった。
「フレーヘードとは、出自や既存の価値観に囚われることなく、自身の志に従って行動することであります。このフレーヘードはナポレオンのような英傑だけでなく、足軽や中間はもちろん、乞食でさえも抱くことができるものなのであります」
 寅次郎は優し気な口調で品川にフレーヘードの意味を講釈した。品川は目からうろこが落ちたのか、得心したようであった。
「ちゅうことはこのわしでも、そのフレーヘードを掲げることができるちゅうことで間違ってはおらんでしょうか? 先生」
 品川とともにフレーヘードの講釈を聞いていた伊藤が口を挟む。
「もちろんじゃ。そもそもフレーヘードは我々のような、名もなき者のために存在しちょる言葉じゃからのう。利助はフレーヘードを掲げて、何か成し遂げたいことはあるんか?」
 寅次郎が伊藤に対して優しく問いかける。
「何か成し遂げたいちゅうわけではありませぬが、一度でええからイュウロッパに行ってみたいとは思うちょります」
 寅次郎の質問に答えた伊藤の目はきらきら輝いている。
「ナポレオンが覇を唱えたイュウロッパの国々の政は、将軍や諸侯のように身分の高いお侍が取り仕切るのではなく、民の中から優れた者を選んで行うちゅうことを、以前先生の講義で学びました! それからちゅうもの、わしは民の民による政が一体どねーにして動いちょるのか、またどねーにして民の中から優れた者を選んじょるのかなどと、来る日も来る日もイュウロッパの国々の政について考えずにはいられないのであります。またイュウロッパの民は、自身の住む土地を好きなように選ぶことができ、そして就きたい職に好きなように就くことができるちゅうことも先生の講義から学びました。こねーな民がようけおる国が一体どねーな形をなしているのか、確かめぬことには死ぬにも死ねぬのであります!」
 伊藤は自身のイュウロッパへの憧れを情熱的に語った。
「なるほど、それは立派なフレーヘードじゃのう、利助。じゃがそのフレーヘードを現実のものとするためには、今以上に研鑽してさまざまな経験と知識を蓄え、そしてそれを実践に移していかねばいけんことを忘れてはいけんぞ」
 寅次郎が厳しい口調で利助を戒めると、利助は返事をするかわりにコクっと頷く。
「じゃが住む場所も就く職も好きなように選べるちゅうことは、商才があれば誰でも簡単に金持ちになれるちゅうことじゃよな。まっことええ国じゃ! もしわしがイュウロッパに行けば、殿様をしのぐ財をなせるかもしれんのう」
 利助の話を聞いた品川が調子に乗って世迷言を言い出した。
「侍が金儲けの話をするとは何事じゃ! 恥を知れ! 恥を!」
 それまでずっと沈黙を守っていた晋作が怒気を発して品川を一喝する。
「な、何じゃ、そねーに怒ることはないでしょう……。わしは冗談のつもりでゆうただけなのに……」
 晋作に雷を落とされた品川はさっきまでの元気はどこへやら、急にしょぼくれ始めた。
「黙れ! 口答えするな! ええか、侍っちゅうもんはな、世を治める治者として、利で動く百姓や町人達の手本になるよう、常に義を心掛けんといけんのんじゃ。武士は食わねど高楊枝ちゅう言の如く、例えどねー惨めな境遇に陥ろうとも、侍としての誇りは絶対に守らねばいけんのじゃ。なのに貴様は侍の本分を忘れ、まるで下賤な商人の如き戯言を申した! まっこと許しがたい! できることなら今この場で切り捨ててやりたいところじゃ!」
 晋作はぎろっと品川を睨みつけながら立ち上がり、右脇に置いた自身の刀に手をかけようとする。
「待て待て、少し頭を冷やせ、晋作。確かに弥二の言動は侍としてあるまじきものではあるが、じゃからとゆうてすぐに刀に手をかけて切り捨てようとするんは、余りにも激情が過ぎるぞ」
 久坂も立ち上がって晋作を窘めた。頭に血が上っている晋作とは対照的に、久坂は冷静そのものだ。
「久坂君のゆうちょる通りです。ここは学問を学ぶ場であって、感情的になって刀を振り回す場所ではありません。それに商人を下賎呼ばわりすることもよろしくありません。商人がおるからこそ、さまざまな品がこの神州の各地に行き渡り、こねーにして我々は生きてゆけるのであります。侍が世を治める治者である以上、その治者を支える者たちの存在を軽んじるような言は慎まねばいけんぞ」
 寅次郎も晋作の行為に対して注意を促す。二人に注意されて、自身の形勢が悪くなったことを悟った晋作は、しぶしぶながらもしぶしぶながらも畳の上に座りなおした。
「じゃがイュウロッパとはつくづく不思議な場所じゃのう。民が政を取り仕切るだけに飽き足らず、好きな土地に住み、好きな職に就くことを許しながらも一つの国として成り立っちょるのじゃから」
 高杉が畳に座ったのを確認して、同じく畳に座りなおした久坂が場を仕切り直すべく発言する。
「それらこそが奴らの強さの源の一つにして、この神州を侵略せんとしちょる外夷の正体にも繋がるのであります。ぺルリの黒船しかり、西欧諸国があれだけの軍艦や大砲を持つことができちょるのは、民一人一人がしっかりと志を持って、国の為に働いちょることが大きな要因として挙げられます。確かに外夷は憎むべき存在ではありますが、民の在り方とゆう面に限って見れば、見習うべき存在にもなりうるのであります」
 寅次郎が久坂の疑問に答えた。
「もしそねーな外夷の風習を安易に取り入れようもんなら、外夷に攻め込まれるよりも前に侍が滅び去り、この国もたちまち滅び去ることになりましょうな!」
 晋作がしかめっ面をしながら噛みつく。
「そもそもこの国は頼朝公以来、侍が治めてきたからこそ今の独立を保ってこれたのじゃ! 侍あっての神州、神州あっての侍なんじゃ。かつて蒙古を撃退できたのも、侍が政を取り仕切っていたから成し得たことなのじゃ。それを忘れてただ徒に外夷の真似事をすれば、戦う前に異人共に膝を屈することになりますぞ!」 
 晋作は久坂や寅次郎の言に対して反論した。彼は長州藩の名門の嫡男として生まれたため、他のどの侍よりも侍意識が強かった。
「高杉君、君のゆうちょる通り、確かにこの神州は侍の国であり、侍がおったからこそ今の独立があるのであります。じゃが今の君がそれをゆうても、ただの侍の驕り、傲慢にしか聞こえませんよ」
 寅次郎は晋作に対して諭すように言った。それを聞いた晋作は激怒して、抗議しようとしたが寅次郎に制せられてしまい、
「貴方に初めて出会ったときに、防長一強き侍どころか、医学生である久坂君にさえも一生勝てんと言いましたが、今日改めてそれが確かな真実であることを確信しました。貴方は真の侍からは程遠い人物じゃ。正直申し上げますと、久坂君の方が貴方より真の侍と呼ぶにふさわしいと存じます。貴方がいくら武芸を磨いたところで、それはただの徒労でしかないのであります……」
 と残念そうな表情を浮かべながら武士失格を言い渡された。
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