第37話 寅次郎と野山獄の囚人達2

文字数 2,084文字

 一方、野山獄では囚人の吉村善作や河野数馬等が寅次郎の要望に応え、同じ囚人達を相手に、中庭で獄中俳諧を非定期的に開くようになっていた。 
 そして安政二(一八五五)年十月十二日、松尾芭蕉の忌日であることを名目に、河野数馬が獄中俳諧を行った。
「追いはぎの 出るは昔の 事にして」 
 参加者の一人である寅次郎が上の句を読むと、それに対し富永弥兵衛が
(こえ)高々と ふれる虫売り」 
 とほとんど間をおくことなく下の句をつけた。
「おお! 腕を上げましたな! 富永殿」 
 俳諧の指南役の一人である河野数馬が感嘆する。
「御冗談を。河野殿からすればこの程度、赤子の句以外の何物でもないでしょうに」 
 富永がぶっきらぼうに言う。
「相変わらず嫌味な奴じゃ。では次は儂が上の句を読む番じゃのう」 
 むっとしながらも河野は気を取り直して、
「旦那寺の 和尚は(さて)も 肥え太り」 
 と上の句を読んだ。河野以外の囚人は、必死に頭を抱えながら下の句をつけようとするも、誰も句をつけることができそうになかった。
「猫がすきやら 撫でつさすりつ」 
 しびれを切らしたのか、河野は自身で下の句を付けた。
「河野殿! せっかく今下の句を思いついたのに先に言うてしまうとは……。まあええ! 次は儂が上の句を読む番じゃあ!」 
 河野と同じく俳諧の指南役であった吉村は悔しそうに言って、
「俄雨 晴れて涼しき 送る風」 
 と今の自身とは真逆の心情を表現した上の句を読んだ。
「茄子と胡爪は 未だ初物」 
 それに対して富永が、寅次郎の上の句同様見事な下の句を付けると、
「さて次は儂の番で御座いますな。世の塵に すそ打払う 気の安さ」 
 と無愛想な表情で上の句を読んだ。
「勝手を隠す 細き衝立(ついたて)」 
 しばらく間をおいて齢四十四の囚人である岡田一廸が、どこか満足げな表情を浮かべながら下の句を付ける。
「まさか獄内で皆とこうして俳諧を窘めるようになるとは、実に夢のようじゃのう」 
 寅次郎は感慨深そうな様子で言うと、急に真面目な顔つきになって、
「実は皆に話さねばならんことがあるのじゃ。心して聞いてくれんか?」 
 と囚人達に尋ねた。
「一体如何なる事に御座いましょうか? 我らぜひ聞きたく存じます」 
 囚人の一人である弘中勝之進が期待と恐怖を滲ませながら尋ね返す。他の囚人達も皆、弘中と同じ気持ちだ。
「実は藩の意向でこの獄を出て、松本村にある実家の杉家にて謹慎することになるやもしれんのじゃ」 
 寅次郎の突然のこの発言を受け、囚人達はみな衝撃の余り固まった。
「昨日兄上から直々に知らされてな、まだはっきりとしたことは分からんのじゃが、近いうちにこの獄から出ることになるのは確かみたいなんじゃ。僕がせっかくこの獄の長になった時に備えて作った福堂策も、これで意味を成さんようになってしもうたようじゃのう……」 
 福堂策は寅次郎が獄中においてアメリカの獄制を元に考案した策であり、その内容は囚人達に読書や写字、諸種の学芸を習わせる事や野山獄の番人の任免権を番人の長に一任する事、定期的に御徒士や御目付を獄に派遣して獄中の訴えを聴かせる事等、この時代においては極めて斬新な策であった。 
 寅次郎はよほど落胆したのか、やるせない表情を浮かべている。
「何を仰られるのですか。真の福堂はこの獄の外にあるのではないのでしょうか」
 囚人の誰よりもいち早く衝撃から立ち直った大深虎之丞が寅次郎に反論した。
「先生が野山獄に来てからこの一年、私達はいろんな学問をご教授頂きました。貴方様のお蔭で何もする事もなく、ただただ自堕落に過ごすしかなかった日々に光が差し込みました。貴方様は光そのものです。そしてその光はこの獄内だけに留まっていてはいけないのであります」 
 虎之丞は自身の思いの丈を全て吐露した。
「私も大深殿と同じ意見で御座います」 
 高須久子が口を開いた。
「先生はこの獄で朽ち果ててええような御方ではございません。私達はもう大丈夫ですけぇ、どうかこの獄を出てより多くの人に先生の知恵をお与えになって下さい。それが今は亡き金子殿の為にもなるかと存じちょります」 
 久子はいつものように優しく微笑みながら言った。 
 寅次郎と供に下田から黒船に密航しようとした金子重輔は、百姓等の庶民を対象とした獄である岩倉獄に入獄してから三か月後の安政二(一八五五)年一月に、元々病弱であった事に加えて、獄内の衛生環境の悪さが祟り、僅か二十五の若さで獄死してしまっていた。 
 寅次郎は彼の死を嘆き悲しみ、今もまだその悲しみから癒えずにいた。
「高須殿の仰る通りじゃ。僕は金子君の死を無駄にすることはできん」
「そして大深殿、貴方は僕を光と仰ったがそれは間違いであります。光は僕などではなく、貴方を含むこの獄の囚人達であると存じちょります。貴方方の持つ光がこの私を照らしてくれたからこそ、今の僕があるのです。僕はそれを生涯忘れることは御座いません」 
 この会話から二ヶ月後の十二月二十五日、寅次郎は実父杉百合之助の元に病気療養の名目でお預けとなり、実家である杉家に蟄居謹慎となった。
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