第61話 ハリス、将軍に謁見す

文字数 1,706文字

 その頃、江戸では幕府開闢以来の非常事態となっていた。
 アメリカ総領事のハリスが江戸へ出府してきたのである。 
 ハリスは下田協約締結後も執拗に江戸へ出府することを要求し、安政四年七月にアメリカの軍艦であるポーツマス号が下田に入港すると、ポーツマス号に乗ってハリスが江戸に直航することを恐れた下田奉行達の提言によって、ハリスの出府、登城、謁見が正式に認められることとなった。 
 同時にハリスの宿所も、九段坂にある幕府の洋書翻訳及び教授機関である蕃書調所に決定し、ハリスはこの蕃書調所で、江戸城への登城や将軍の謁見の準備を整えていくこととなった。
 この日、ハリスは下田奉行の井上信濃守やヒュースケンなどを引き連れて、江戸城西の丸下にある老中首座堀田備中守正睦の屋敷へ行き、将軍の謁見についての打ち合わせをすることになっていた。
「まさかそちらの方から我が屋敷へお越し下さるとは、恐悦至極に存じ奉りまする」
 堀田備中守は椅子に腰掛けたまま形式ばった挨拶をすると続けて、
「ハリス殿はどうやらお体のご様子があまり優れないと存じておりますが、今日は如何にございましょうや?」
 と慇懃な態度でハリスの健康状態を尋ねる。
「私の体を心配して下さり誠にありがとうございます。私はご覧の通り、健康そのものにございます。ですので宰相殿のご心配には及びません」
 ハリスも椅子に腰掛けたまま英語で返答し、傍にいたヒュースケンに自身の言ったことを通訳させた。
「それは何よりに御座います。ハリス殿がアメリカから印度や支那などの様々な国々を経て、我が国に来て下さったこと、心より感謝申し上げます」 
 堀田備中守が再び形式的な挨拶の口上を述べる。
「私は過去にバンコクやマニラ、上海など東洋の様々な大都市を訪れたが、江戸に及ぶ大都市は一つとして存在しなかった。外交官の立場として、この江戸の大都市を訪問した最初の外国人になれたことを私は誇りに思います」
 ハリスが江戸を称賛した。
「それはかたじけのう御座いまする。今日はハリス殿のために、我が国の煙草や菓子を用意させました故、ぜひご賞味頂ければと存じまする」
 堀田備中守はそう言うや否や家臣たちに命じてテーブルを運ばせ、そしてテーブルを運ばせ終えると、今度は煙草や茶、菓子が載った盆をテーブルの上に運ばせた。
「お心遣い感謝します。ですが私は元来煙草は喫わないと決めております故、お手数ですが下げて頂けませんでしょうか?」 
 ハリスが申し訳なさそうにしながら言う。
「これは失礼仕りました。直ちに下げさせますのでご容赦下され」
 堀田備中守は家臣達に命じてすぐに煙草の載った盆を下げさせる。
「私が今日ここに来たのは他でもない、大君への謁見の事についてお話したくそちらに参りました。これは私が当日大君に述べる挨拶の言葉の写しです。問題ないかどうか確認して頂けますかな?」 
 ハリスはヒュースケンに命じて、オランダ語で表記されている挨拶の言葉の写しを堀田備中守に渡させた。堀田備中守はそれを受け取ってざっと目を通すと、家臣達を再び呼び寄せて写しを翻訳するように命じた。
「私の家臣達が翻訳をしております故、しばらくお待ち頂ければと存じまする」
 堀田備中守はハリスに丁重にお願いすると、
「こちらにも公方様が当日述べる挨拶の言葉を記した写しが御座います故、ぜひご一読頂ければと存じまする」 
 と言って懐から将軍の挨拶の言葉の写しを取り出してハリスに手渡した。ハリスはそれを受け取ると懐にしまいこんだ。
 

 

 四半刻後、堀田の家臣達が翻訳を終えて、ハリスの挨拶の内容を堀田に伝えると、堀田は不備がないことを認め、当日はこの手はずでよろしくお頼み申すと言って散会となった。




 安政四年十月二十一日。
 江戸城本丸の大広間にて、ハリスは遂に将軍家定とのお目見えを果たし、井伊掃部守直弼や酒井雅樂守忠顕等の溜間詰の譜代大名、堀田備中守を中心とした老中や若年寄等の幕閣、御側衆、布衣以上の役人たちなどが列座する中で、アメリカ大統領の国書を無事家定に渡すことに成功した。
 これにより日米修好通商条約締結へ向けて大きく前進することとなった。



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