第91話 寅次郎の決心

文字数 1,614文字

 それから一ヶ月後、野山獄内の中庭で高須久子や安富惣輔ら囚人達と俳句を読んでいた寅次郎の前に、血相を失った兄の梅太郎が姿を現した。
「兄上、そねー白い顔をして一体如何なされたのでありますか?」
 青白い顔をした兄を見た寅次郎は大層驚いている。
「寅次郎、一度人払いをしてもらってもええか? 大事な話がある」
 梅太郎が沈んだ声で言うと、寅次郎は首を傾げながらも久子ら囚人達に室に戻るよう促した。
 そして久子ら他の囚人達がそれぞれに割り当てられた室に戻っていくのを見届けると、寅次郎も自身の室へと戻り、兄を室の前に呼び寄せた。
「大事な話とは一体何でございまするか? 兄上」
 自身の室の前に来た兄に対し、寅次郎が訝しげに尋ねる。
「ええか、寅次郎。これから儂が話すことはお前にとって何もうれしくない話じゃ。儂もこの知らせを長井様から聞いたときは正直耳を疑った。じゃがこれはまごうことなき事実なのじゃ」
 梅太郎は言いづらそうにしながら前置きを念入りに重ねた。
「悪い話でも何でも構いませんので、早う話して下さい」
 本題に入ろうとしない兄に対し若干やきもきしながら寅次郎が言った。
「幕府がお前の身柄を差し出すよう命じてきたのじゃ。評定所においてお前を吟味したいと。何故幕府がそねーな事を命じてきたのかについての説明はなかったが、恐らく間部老中を暗殺しようとしたことがばれたのやもしれぬ」
 梅太郎は恐怖で顔を引きつらせながら弟に非情の知らせを伝える。
 召還命令を聞いた寅次郎は一瞬驚いたような表情になったがすぐに平静を取り戻し、何が可笑しかったのか、いきなり高笑いし始めた。
「な、何じゃ! 一体何がそねー可笑しいんじゃ? 寅次郎」
 梅太郎は突然笑い始めた寅次郎を見て困惑している。
「ははは! これはおもしろい! まっことおもしろいのう! 僕は兼ねてよりずっと江戸城におる幕閣の面々と一度会うて話をしてみたいと思うちょったんじゃ! まさか向こうの方からそねーな機会を与えてくださるとは、まっこと僕はついちょるのう!」 
 寅次郎はまるで気が触れたかの様に高笑いしながら喋っていたため、梅太郎は唖然とするより他なかった。 
「お前、事の重大さが分かっちょるのか? 幕府がお前に召還命令を出しちょるんじゃぞ! もしかしたらもう二度とこの萩には戻ってこられんかもしれんのじゃぞ! なのに何故お前はそねー笑っておれるんじゃ?」
 気を取り直した梅太郎が憤慨したように尋ねる。
「僕には自分の命よりも大事なものがあるからで御座いますよ、兄上。僕はこれまで志を持つこと、実際に行動することで学んだ知識を世に役立てることを常に心がけて参りました。そして今図らずもそれを十二分に発揮できる機会を与えられました。今こそ草莽が崛起して幕府に立ち向かわねばならないのであります。例え命を失うことになったとしても」
 梅太郎に質問された寅次郎は淡々とその理由を説明した。
「全くお前とゆう奴はどこまでも人を呆れさせる男じゃのう、寅次。三十年近く一緒に過ごしておってもお前の破天荒は理解できん」
 梅太郎は急に馬鹿馬鹿しくなったのか、笑いながら言うと続けて、
「じゃが何故じゃろうか、お前のそねーな所をどねーしても嫌いになることができん。むしろ好ましく思うてしまうときがあるくらいじゃ。儂もお前の気にあてられておかしくなったのかもしれんのう」
 と冗談めいたことを口にし出した。
「全くその通りでございますよ。兄上ともあろうお方がそねーなことを口にするとは」
 寅次郎も笑いながら冗談を口にする。
「思えば兄上にはこれまでいろいろご迷惑をおかけしましたなあ。父上や母上、叔父上、妹の文、久坂君達にもなんと詫びればええか正直分かりませぬ。全く私は最期の最期まで不孝者でございました」
 寅次郎が悲しげな表情で言うと、梅太郎は何か言いたげな顔をしながらも、面会できる刻限が過ぎていたため、その場を後にした。
 
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