第111話 返納か否か

文字数 2,924文字

 安政六(一八五九)年十二月。
 江戸城本丸大廊下の上之間において、水戸藩主の徳川慶篤が井伊大老と若年寄の安藤対馬守信睦達から、水戸に下った密勅の返納を迫られていた。
「昨年の八月八日に水戸に下した勅諚を返納させるよう、朝廷から幕府に勅令が届きましたので、三日を限りとして幕府に勅諚を返納頂けませんかな?」
 吉田寅次郎や梅田雲浜、水戸の安島帯刀や鵜飼親子などの不穏分子を全て一掃したのを機に、大獄の直接の原因となった密勅の回収を目論んでいる直弼は、丁寧な言葉遣いながらもどこか威圧的な態度で慶篤に返納を迫る。
「勅諚は今我が水戸領内にある故、急ぎの返納は叶わぬ。それに我が藩は勅諚の返納に反対する激派の輩も少なくなく、半年前には小金宿に激派の者達が集まって、返納を阻止せんとする騒ぎが起きたばかりじゃ。彼等を説諭せぬ限りは勅諚の返納はとても……」
 密勅を返納するよう圧力をかけてくる直弼達と、返納の反対を唱える激派の間で板挟みになっている慶篤は苦しそうな表情をしている。
「これは勅命でございまするぞ、中納言様!」
 若年寄の安藤対馬守が強い口調で慶篤を詰った。
「もし勅諚の返納に遅延するようなことがあらば、必ずや違勅の罪に問うことと相成りましょうぞ。それに勅諚の返納に反発して激派の者達が再び騒動を起こしたら、その時はご公儀の武力を以って鎮圧平定するつもり故、くれぐれもお忘れなきよう、よろしくお願い申し上げまする」
 直弼同様、対馬守も何が何でも勅諚を返納させるつもりでいるようだ。
「斉昭公が永蟄居と相成り、家老の安島帯刀や鵜飼親子、鮎沢伊太夫、茅根伊予之介など密勅に関わった家臣達が皆死罪か遠島となった今、貴方様の取るべき道は勅諚の返納しか御座いませぬ。水戸を後世に残されることをお望みであらば、早急に勅諚を幕府に返納して下さりませ。さもなくば、水戸をお取り潰しにすることも最悪考えねばなりませぬぞ」
 対馬守に脅されてさらに苦しそうな表情になった慶篤に止めをさすべく、直弼は水戸の改易の可能性をちらつかせた。





 井伊大老達に勅諚の返納を迫られた事実は慶篤によってすぐに水戸の領内に知らされ、それを受けた前藩主の徳川斉昭は、家老の杉浦羔二郎や元家老の岡田徳至、武田耕雲斎、大場一真斎、弘道館総教の会澤正志斎、助教の鈴木子之吉などを水戸城内に集め、緊急の大評定を開いた。
「事ここに至りては、勅諚を返納する以外に手立てはありますまい」
 家老の杉浦羔二郎は諦めたような口調で返納すべきことを意見した。
「勅諚の返納が朝廷から下された勅命である以上、それに逆らえば水戸藩は朝敵と相成りまする。もし左様なことになれば二百年続いた我が藩は滅びることとなりましょう」
 藩の存続の為にもあくまで返納が第一であると羔二郎が述べると、岡田徳至もそれに同調して、
「杉浦殿の申すとおりで御座います。井伊の赤鬼に膝を屈するような形になるのは癪じゃが、勅命である以上、従わない訳にはいかぬでしょう」
 と首を横に振りながら返納に賛成する。
「ただ勅諚を返納するのは幕府ではなく、あくまでも朝廷にするべきで御座いまする」
 会澤正志斎が澄まし顔で意見を言うと、杉浦達がみな正志斎の方を注視したので続けて、
「岡田殿や杉浦殿が申される通り、勅諚を返納すべきなのはまごうことなき事実じゃ。しかし、先の密勅は朝廷から直接我が藩に下されたものであるのだから、返納先は幕府ではなく直接朝廷に返すのが道理に適っておりまする。勅諚を返納する使者として我が藩の家老を上京せしめ、これの見届け役として然るべき幕吏を同道させる旨を申せば、掃部頭様もきっとご理解下さるはずじゃ」
 と意見の全容を述べると、杉浦達はそれが最もじゃと言ってうんうんと頷いている。
「お言葉ですが、正志斎殿」
 武田耕雲斎が正志斎に異を唱えると、今度は耕雲斎の方に杉浦達の注意が向いた。
「此度の勅命は幕吏共の姦計から出たものでございますれば、勅命であって勅命でないと存じまする。どうしても返納すると申されるのであらば、朝廷にお伺いを立ててからでも遅くはござりませぬ。今ここで井伊の姦計に乗せられて軽忽に勅諚を返納すれば、きっと悔いを千載に遺すこととなりましょうぞ」
 耕雲斎が勅諚返納に反対する意見を述べると、大場一真斎も耕雲斎に賛同して、
「耕雲斎の申されることも一理ある。我が藩には返納反対を主張する激派の輩がまだたくさんおり、そ奴らがただ黙って勅諚が返納される様を見ているとは到底思えませぬ。金子孫二郎や高橋多一郎、関鉄之介など激派の主だった人物は今蟄居中の身ではございますが、依然として他の激派の面々に強い影響力を与えておりまする。勅諚の返納を阻止すべく、彼らはその影響力を行使して、きっと小金宿の騒動の時のように街道の封鎖を試みるに間違いありますまい。いや下手すれば井伊大老の誅殺などという暴挙にでる恐れもなきにしもあらず……」
 と藩内の危険分子を理由に返納反対を述べた。
「勅諚は何が何でも絶対に返納すべきで御座います! もし激派の者共が小金宿のときのような騒動を再び起こすというのであれば、その時は我が藩の武力を以ってこれを鎮圧するのが寛容と存じまする!」
 正志斎が耕雲斎や一真斎の意見を一蹴する。
「ことは水戸の存亡に関わることなのですぞ! 激派の者共に恐れを為す余り、勅諚を返納できず朝敵と相成って、挙句の果てにご公儀に改易されるなどということになれば、我が水戸藩は末代までの笑い物になりまする! 耕雲斎殿や一真斎殿はそこの所はご存じなので御座いまするか?」
 正志斎が怒ったように言うと、今までずっと黙っていた斉昭が、
「もうよい、正志斎。お主の申したきことはよう分かった」
 と言って制止したので、正志斎は不満げにしながらも口をつぐんだ。
「儂は正志斎達が申す議に従い、勅諚を返納することに決めた。だがこれは井伊の赤鬼の姦計に屈したからではなく、あくまでも朝廷に忠を尽くすためじゃ。儂はぺルリの来航よりもずっと昔から朝廷に忠を尽くしておるし、今も、これからもずっとそうするつもりでおる。それに尊皇攘夷の考えは元々我が水戸から発祥した考えじゃ。その水戸が朝廷に逆って朝敵となったら天下に示しがつかぬ。じゃから儂は勅諚を朝廷に返し奉る所存じゃ」
 斉昭の考えを聴いた一同は大評定が決したのを悟り、皆黙りこくって誰も何も言わなくなった。
 




 だが事は斉昭達の思い描いた筋書きから大きく狂うこととなる。
 勅諚の返納を阻止すべく激派の一派が、水戸街道の要地である長岡宿に集結して街道を行き交う人を検問し、江戸と水戸を行き来する使者を抑留するという暴挙に出たのだ。
 これに対し、斉昭等水戸の藩政府は彼らに退散命令を出し、従わぬ場合は藩に仇為す賊として討伐する旨を告げたため、賊になることを恐れた者達は長岡から退散するも、その一部は水戸に帰らず、そのまま出奔して江戸に行ってしまった。
 また時を同じくして金子や高橋、関達も水戸を出奔して江戸に向かい、長岡勢の一派と合流した後、勅諚の返納を阻止するという名目で、井伊大老の暗殺計画を本格化することとなるのである。


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