第8話 秀三郎と玄機

文字数 1,378文字

 仕置見物をしたその夜、秀三郎は自宅の縁に腰掛けながら一人ぼんやりと夜空を眺めていた。
 はじめて見た仕置の衝撃の余韻が残ってるのか、いつもなら宵五つ(午後八時)ごろにはとっくに就寝しているのに、夜四つ(午後十時)になってもまだ目が冴えて眠れずにいた。
「まだ眠れずにおったんか? 秀三郎」
 二十歳近く年の離れた兄玄機が秀三郎に声をかけた。玄機は長州藩を代表する藩医であり、好生館の本道科教授も務めている。
「昼間の仕置の光景がまだ鮮明に残っちょっててどうしても寝れんちゃ」 
 秀三郎は堰を切ったようにして、玄機に昼間の仕置の事について赤裸々に話し始めた。
「最初威勢よく吠えちょった罪人が抜き身の刀を前にしたとたん、急に怖気づいて命乞いしよってそれで……」
 秀三郎は話していくうちにだんだんと興奮してきたことに気付いた。
「貴重な経験ができてよかったのう。そういえば腑分の見学をすることはできたんか?」
 玄機が秀三郎に尋ねる。秀三郎が腑分について興味を持っていた事を玄機は以前から知っていた。
「いんや腑分の見学をすることはできんかった……藩医の子とはいえ十三の小僧では全く相手にされんようじゃ」
 秀三郎は落胆したような表情をしている。仕置が終わった後、秀三郎は役人たちに腑分の見学の直談判をしたが、にべもなく断られてしまったからだ。
「そう気を落とすことはないっちゃ。そのうち好生館への入学の許可もでるじゃろうし、腑分を見学する機会はまだ幾らでもあるじゃろう」
 玄機はにっこり笑って秀三郎を励ます。
「そうじゃの! 兄上の申す通り、またそのうち見学できる機会があるかもしれんの! ところで兄上は村田様に具申する海防策の意見書は完成したんか?」 
 気を取り直した秀三郎が玄機に尋ねる。玄機は蘭学を学んでいた関係上、海外の事情にも精通しており、かつて長州藩の家老だった村田清風(むらたせいふう)に海防に関する意見をしきりに求められていた。
「意見書はすでにできちょる。あとは清書するだけじゃ!」
 玄機は自信満々な様子でいる。
「ええか、前にもゆうたがこの日本は四方を海に囲まれちょるけぇ、異国船がどこからやって来たとしても全くおかしくない状況なんじゃ。この防長二州もまた四方を海に囲まれちょるけぇ、異国の脅威からは逃れられん。じゃけぇ異国船に備えて海軍を創設し、沿岸に砲台を建造せねばいけんのじゃ」
 完成した意見書がよほどの自信作だったのか、玄機は得意げにかねてからの持論を突然語り始めた。
「それに異国船は船全体が黒い鉄の塊でできておって、風がなくても石炭を燃やして蒸気の力だけで動きよるみたいじゃ。これに対抗するにはこちらも異国船と同じ船を作る技術を取り入れる必要があることを、今回村田様への意見書で申し上げるつもりなのじゃ」 
 玄機は蒸気船の解説をすると、『海国兵談』と記された小さなぼろぼろの本を取り出して秀三郎に手渡した。
「これは林子平が書いた『海国兵談』じゃ! わしはこれを読んで海防について学び始めた。お前も蘭学を学ぶ者の一人なら読んどいて損はないじゃろう」
 『海国兵談』を読むよう弟に勧めた玄機は、完成した意見書を推敲すべく自分の部屋へ戻って行った。 
「蒸気で動く船かあ……一体どねーな船なんじゃろうか。全く想像できん」 
 秀三郎は玄機からもらった本を(めく)りながら一人考えていた。

 
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