第87話 野良犬斬り

文字数 1,995文字

 その頃、晋作は江戸で一人うつうつとした日々を過ごしていた。
 晋作は安政五年十一月に幕府の最高学府である昌平坂学問所に入所するも、そこでの学問は松下村塾の学問とは違って形式ばかりを重んじた非常につまらないものであったため、大いにやる気をそがれ、また久坂や中谷といった諸友が続々と帰萩してしまったこと、寅次郎から絶交を申し渡す文が送られてきたことなどで精神的に追い詰められたのか、夜中に学問所の書生寮を抜け出しては手当たり次第に野犬を斬って、日頃の憂さを晴らしていた。
 この日も夜中に一人寮を抜け出した晋作は、斬るのに手頃な野犬を求めて神田川沿いをぶらぶら徘徊していた。
「ちっ! 今日は野犬が見つからぬのう! こねーむかむかしちょるときに限って姿を見せんとは、一体どねーな料簡なんじゃ?」
 寮を抜け出してから半刻が経ったにも関わらず、まだ一匹の野犬も見つけられずにいた晋作が毒づく。
 まだ夜五つ時ではあったが辺りは大分暗くなっており、手に持っている提灯がなければ一寸先も見えないような有様だった。
 晋作がぶつぶつ文句を言いながら暗い川沿いを歩いていると、四間ほど先に何やら黒い物体がうごめいているのが確認できた。
「お! これはこれは! やっと獲物のおでましかのう!」
 晋作はうれしそうに言うと、手に持っていた提灯を静かに脇において鞘から刀を抜いた。
 血気に逸る晋作が刀を中段に構えて、獲物と見定めた黒い物体との距離をじりじりと縮めていくと、晋作の殺気に感づいたのか、その黒い物体も「がるるるる!」と呻き声を漏らしながら臨戦態勢に入った。
 しばらくの間、両者は呼吸することも忘れて互いに睨み合っていたが、その均衡を破るように晋作が一歩前に足を踏み出すと、その黒い物体は晋作に飛びかかってきた。
 晋作は黒い物体の攻撃をひらりと身を避けて躱し、「でやあ!」と叫んで逆にその黒い物体を刀で斬りつけたため、体中に血しぶきを浴びることとなった。
 晋作に斬られたその黒い物体はそのまま地面に倒れ伏し、「きゃん!」と叫んだのを最後に動かなくなったので、晋作は刀についた血を落として鞘に納めて、脇に置いた提灯を一旦取りに戻った。
 そしてまたその黒い物体が倒れている所に行くと、物体の周辺に大量の臓物や血が飛び散っているのを確認できた。
「よし! まずは一匹! この調子であと十匹は斬りたいところじゃのう!」
 無残な躯となったその物体を見た晋作はますますうれしそうな様子だ。
「こねーな所で何をしちょるんじゃ? 晋作!」
 後ろから突如大声が聞こえたので、晋作が振り返ると四十過ぎほどの中年の侍がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「ち、父上! 父上の方こそ、こねーな所で何をしちょるんですか?」
 後ろから駆け寄ってくる中年の侍が父の小忠太であることに気づいた晋作は驚きの余り、開いた口が塞がらずにいる。
「今日は非番じゃったけぇ、神田明神に参拝しちょったんじゃ! 帰りに神田川沿いを歩いちょったら、野犬の声が聞こえてきたんで何かと思うて来てみたら……」
 息子と思いがけない遭遇をしてしまった小忠太も大層驚いている様子だ。 
「ところでお前の近くに転がっちょるそれは一体何なのじゃ?」
 小忠太は息子を押しのけて、地面に転がっているそれを確認した。
「晋作、これは一体どねーなことなのじゃ? まさかお前、いつもこねーなことをやっちょる訳ではなかろうな?」
 息子に斬られた野犬の残骸を見た小忠太が般若のような顔で晋作に尋ねる。
「いつもではござりませぬ! たまたま出来心でやってしまっただけであります! 最近剣術の修行もあまりしちょらんかったので、つい魔が差してしまい……」
 父親に詰問された晋作はとっさに嘘をつくも、途中で言葉に詰まってしまった。
「まあええ! とにかく、こねーなことは二度とするな! 江戸で何か粗相をしでかそうものなら、高杉家云々ではなく、主君の顔に泥を塗ることになりかねないからの!」
 子忠太は息子にきついお灸をすえると続けて、
「それとお前は家の者達に隠れて吉田寅次郎やその門下生達と親しく付き合うちょると耳にしたが、誠のことなのか?」
 と唐突に寅次郎のことを持ち出してきた。
「吉田寅次郎ですか? 一体どねーな……」
 野良犬斬りのことで問い詰められた挙句、今度は寅次郎の関係について問いただされた晋作は何とかして胡麻化そうとした。
「とぼけんでもええ! 爺様がまだ生きちょったころに文をもろうちょるけぇ、全てお見通しじゃ! 吉田寅次郎は黒船に密航するだけに飽き足らず、今度はご老中の暗殺まで企てた正真正銘の大罪人じゃ! 今後寅次郎やその門下生達と関わり合いになることはこの儂が許さん! ええな、よう肝に銘じちょけ!」
 小忠太はしらを切ろうとした息子をくどくど説教すると、そのまま桜田にある藩邸へと一人帰っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み