第151話 松浦亀太郎の最期

文字数 2,649文字

 来原達が大阪の長州藩邸を後にしたのと入れ替わりで今度は豊後岡藩士の小河弥右衛門が大阪の薩摩藩邸から久坂達を訪ねてきた。
 小河弥右衛門は今年で齢五〇になる初老の男で、庄内の清河八郎や久留米の平野国臣といった名のある尊皇攘夷の志士の一人であった。
「お主があん久坂玄瑞殿か?」
 弥右衛門が久坂に尋ねる。
「如何にも。わしが久坂玄瑞じゃ」 
「そねぇ貴方は豊後の小河弥右衛門殿に相違ありませぬか?」
 久坂は弥右衛門の問いに答えると逆に弥右衛門に聞き返した。
「左様。儂が小河弥右衛門たい」
 自身が小河弥右衛門であることを認めると、
「何の断りもなくいきなり押しかけるような真似をして申し訳ないが、お主にはどがんしても頼みたいことがあってここに参った」
 と謝って久坂を訪ねた理由について話し始める。
「単刀直入にゆうと今儂等は薩摩屋敷におる尊皇の同志達と長井雅樂を斬る企てをしとるけん、お主等長州人もそん企てに加わってはもらえんか?」
 弥右衛門が長井の暗殺計画に加わるよう久坂達を誘う。
「和泉殿の挙兵に加わって尊皇の実を挙げたい儂等にとって、京で航海遠略などとほざいて帝や公卿をたぶらかしとる長井は邪魔でしょうがないたい。儂等の挙兵を成功させるためにも長井には死んでもらわねばならんたい。是非お主等にも長井を斬る手伝いをしてもらいたい」
 弥右衛門の話を聞いた久坂達は俄かにざわつき始める。彼らは余所の藩の者から長井暗殺を持ちかけられるとは予想だにしていなかった。
「申し訳ありませぬが弥右衛門殿の頼みを承諾することはできませぬ」
 久坂が弥右衛門の申し出を断る。
「長井に天誅を下すのはあくまでも同じ長州の者でなければなりませぬ。もし他家の者に長井が討たれるようなことになれば、わし等長州人は天下に対して面目を失うことになりまする。何卒分かっては頂けぬでしょうか?」
 長井を討つのに余所者の、ましてや薩摩と繋がっている者の手など借りるわけにはいかぬ、長州が薩摩にこれ以上遅れを取る訳にはいかぬのだという強迫観念がこの時久坂を支配していた。
「そがんゆうても今のお主等に長井を討てるだけの力も策もないのが現状ではないんか?」
 久坂に協力を断られた弥右衛門はあからさまに不機嫌そうにしている。
「もしお主等だけで長井を討ちとることができるんであれば、長井があがんのさばるようなことにはならんはずたい。お主等の不甲斐なさが長井を増長させとるけん、儂等が代わりに長井を討つっちゅうとるのに何故手を貸そうとせんのじゃ?」
 弥右衛門が久坂に食ってかかる。
「長州人を見くびらないで頂きたい!」
 久坂の代わりに松浦が弥右衛門に反撃した。
「貴方方の手を借りずともわし等だけで必ず長井を仕留めるけぇ、余計な手出しは無用であります! どねぇしても貴方方で長井を討つっちゅうのであれば、わし等は長井よりも先に貴方方を斬るつもりであります! ゆめゆめお忘れなきようよろしくお願い申し上げまする!」
 松浦は今にも腰に下げている刀に手をかけそうな勢いであったため、久坂は慌てた様子で、
「それぐらいにせえ! 今ここでわし等が斬りあいをして一体何になるっちゅうんじゃ!」
 と止めにかかった。
「すまん、つい頭に血がのぼうてしもうた……」
 久坂に諫められ平静さを取り戻した松浦が申し訳なさそうにしている。
「相分かった。お主等が協力せぬと申すのならそんでもよかたい。けんど長井は必ず儂等で討つつもりたい、決して邪魔だけはすな。もし邪魔するんであればお主等から先に斬る」
 弥右衛門は久坂達に忠告すると足早に長屋から去っていった。





 その夜、久坂は松浦に長州藩邸の近くにある常安橋のたもとへと呼び出され、長井暗殺の計略に関する重大決心を打ち明けられていた。
「今日の昼間、小河弥右衛門にわし等で長井を討つと申したが、やはり長井はわし一人で始末したいと思うのじゃ」
 松浦は神妙な面持ちで長井を討つ決意表明をする。
「長井を一人でじゃと! 血迷うたか、亀! そねぇな事無理に決まっとるじゃろうが!」
 松浦の衝撃の告白に驚くあまり、久坂の声が裏返った。
「長井は今の長州を動かしとる重役の一人じゃけぇ、闇討ちを警戒して常に供侍に自身の身を守らせとる! そねぇ長井の元に何の策もなく一人で突っ込めば確実に犬死することになるぞ! 亀、おめぇは村塾の同志で大事な友じゃ! そねぇなおめぇをなして長井のためにみすみす死なせられようか!」
 いくらなんでも無謀すぎる、できるはずがない、馬鹿なことはやめろと言って久坂は何とかして松浦を思いとどまらせようとしている。
「無理なことは百も承知しとる。承知しとるがそれでも誰かがやらねばいけんのんじゃ」
 松浦はてこでも自分の意思を曲げようとしない。
「わし等が上方まで来たのは藩を出奔して薩摩の挙兵に加わるためじゃ。わし等の命はあくまでも尊皇の大義のため、勤皇の実を挙げるために使われなければならぬ。じゃがその前に余所者に長井が討ち取られるようなことがあらば、わし等長州人は天下に恥を晒すことになり、尊皇の大義どころの話ではなくなる。そねぇなことになる前に長井を斬らにゃあならんが、奴を斬らばわし等はみな打首獄門と相成り、勤皇の実を挙げることができなくなる。じゃけぇわし一人が捨て石となって長井を討ち果たせば長州人の面目は保たれ、おめぇ達は勤皇の実を挙げるためだけに命を使うことができる。魚商人の子で侍ですらないわしの命が少しでも役立てるならそれで本望じゃ。わしの考えをどうか分かってくれかのう?」
 松浦が自身の並々ならぬ覚悟を述べると、久坂は、
「亀……」
 と一言だけ喋って黙り込む。
「そねぇ顔せんでくれ、久坂」
 悲しそうな顔をしている久坂に松浦が笑いかける。
「これから薩摩の挙兵に加わって勤皇の実を挙げるのじゃけぇ、いつもみたいに凛々しくしとれ」
「……」
 久坂はまだどこかやるせない表情を浮かべている。
「今までありがとの、久坂。おめぇ等と共に行動できてまっことよかった」
 松浦は久坂に別れを告げると一人常安橋を渡って夜の闇へと消えた。

 その翌日、松浦亀太郎は長井を討つべく藩を脱走突出して京の都へ行くも、すでに長井は江戸へ出立したあとであった。
 長井を討ち果たせず、かと言って今更藩に戻ることもできない松浦は絶望し、粟田山にて切腹し果てた。
 享年二十六。
 彼の死を皮切りに松下村塾の門下生は次々と動乱の渦に巻き込まれ、命を落としてゆくこととなる。
 

 
 
 

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