第5話 長州の名門高杉家

文字数 1,552文字

 翌朝、屋敷をこっそり抜け出したことがばれた晋作は、父小忠太のいる奥座敷に呼び出され、説教を受ける羽目になった。
「この大たわけ者が! 昨夜屋敷を抜け出してどこに行っちょったんじゃ!」
 小忠太の怒鳴り声が屋敷中に響く。怖いもの知らずの晋作でも、父の小忠太にだけは頭が上がらない。
「寝付けなかったので辺りを散歩しちょりました」
「嘘を申すな! 清兵衛が昨夜屋敷の倉に梯子を戻しに来たお前を見たとゆうちょったぞ!」
 息子のつまらない嘘を聞き、小忠太の怒気はますます激しくなる。 
 晋作は秀三郎と別れ法光院から帰った後、誰にも見つからぬように梯子を屋敷の裏にあった倉に戻したつもりであったが、運悪く小便の為に起きてきた小者の清兵衛にその姿を見られていた。
「最近法光院の天狗の面の噂についてしきりにゆうちょったが、よもやそれを確かめるために寺に忍び入ったのではあるまいの?」
 ものすごい剣幕で怒る父親に問い詰められ、法光院での一件がばれるのが時間の問題であることを悟った晋作がついに観念すると、小忠太は落ち着きを取り戻し、
「ええか、高杉家は元就公以来代々毛利家にお仕えしてきた名門の家柄、そしてお前はただ一人の大事な高杉家の跡取りなのじゃぞ。もしお前の身に何か起ればお家が潰れることをしかと肝に銘じよ! それに湯引を行ってからまだ日が浅いのだから体を労わらねばいけんぞ。家の者をあまり心配させるでない」 
 と言って説教を切り上げ、放心状態の息子を一人残し部屋をあとにした。




 高杉家は当時萩城下菊屋横丁の一角に屋敷を構えていた。
 家禄は二〇〇石で中級武士に相当する大組に属しており、長州藩全体からみてもかなり裕福な家だった。晋作がこの家に生まれたのは天保十(一八三九)年のときであり、晋作の他に男の兄弟はおらず下に二人の妹たちがいるだけであったため、両親からは厳しくも可愛がられて育った。 
 高杉家の茶の間では、晋作の母道の他に妹の武と栄、主人の小忠太、先程まで小忠太に説教されていた晋作が朝餉の雑炊を食べていた。
「晋作は本当に破天荒な子じゃのう」
 雑炊を食べながら、晋作の母道がつぶやく。
「まさか本当に真夜中に法光院に忍び込むとは……先月まで疱瘡で生死の境を彷徨ちょったのが嘘みたいじゃ」
 道は残りの雑炊を全て飲み干すと、椀を膳の上に置いた。
「兄上はまるでかの鎮西八郎や悪源太のようじゃの!」 
 母親の道から最近保元物語と平治物語の講読を受けた武は、兄の晋作を軍記物の人物になぞらえる。
 道は禄高三〇〇石の大西家出身であり、幼い時から家風で平家物語や太平記などの軍記物の講読を受けてきたため、嫁ぎ先の高杉家でも娘たちに読み書きや裁縫等を教えながら軍記物の講読も行っていた。
「何をゆうちょるんじゃ。わしを鎮西八郎や悪源太のような英傑に例えること自体おこがましいことじゃ」
 父親にこってり油をしぼられ、意気消沈しながら雑炊を食べている晋作はにべもなく否定する。
「その通りじゃ! 晋作はゆくゆくは父様やわしの跡を継いで高杉家の当主となり、主家に忠節を尽くすことこそ役目なのじゃ。鎮西八郎や悪源太のような豪気な者になる必要はないっちゃ」 
 雑炊を全て食べ終えた小忠太が、娘の武に言うと今度は息子の晋作に、
「ええか晋作、お前は確かに破天荒な所はあるが、その気質は学問の修行で変化させることができる。古来の聖人達の中には生まれ持った気質は変えられぬと申しちょる者もおるが、それは誤りじゃ。お前の学問への心掛け次第でいくらでも変えられるけぇ、精進せねばいけんぞ」
 と言って萩城に登城する身支度をすべく座敷へと戻っていた。
「わしも今日は明倫館に参る日ですけぇ、身支度を整えてきます」
 晋作もまた茶の間を後にして居間へと戻って行った。


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