第107話 寅次郎の埋葬

文字数 2,470文字

 安政六(一八五九)年十一月。
 桜田の長州江戸屋敷の一角にある西長屋の一室にて、伊藤利助は桂小五郎の口から師の凶報を知らされた。
「それは真のことなのですか? 寅次郎先生が伝馬獄で斬首されたっちゅうのは?」
 利助はまるでこの世の終わりが来たかのような顔をして絶望している。
「ああ、真じゃ。先生は先月の二十七日に伝馬獄で斬首された」
 桂も利助以上に暗い顔をしながら残酷な真実を告げた。
「何とゆうことじゃ! 誰よりもこの国を憂いちょった先生を殺めるなんて! 幕吏共は一体どこまで愚かなのじゃ!」
 悔しさと悲しみの余り、利助は叫ばずにはいられなかった。
「利助、おめぇの気持ちはよう分かる。僕も幕吏共への怒りと憎しみで煮えたぎっちょる! できることなら今すぐにでも江戸城へ乗り込んで、井伊大老を討ち取ってしまいたいくらいじゃ!」
 桂も利助同様、寅次郎を死罪にした幕府を恨んでいる。
「じゃがそねーなことをしたところで、先生が戻ってくる訳でもなければ、何か状況がかわるわけでもない。いんや逆に藩や我が殿を窮地に追い込むだけじゃけぇ、今はただ黙ってこの屈辱を耐え忍ぶより他ないのじゃ」
 桂は悔しさを噛み殺しながら利助を諭すと突然部屋の戸を叩く音がして、
「桂さん、居られますか?」
 と慌てふためいている男の声が外から聞こえてきた。
「何じゃ、尾寺。僕ならここに居るが一体何を慌てちょるんじゃ?」
 声の主である尾寺新之丞に対して桂が訝し気に尋ねる。
「と、寅次郎先生のことで桂さんのお耳にいれたきことがあるのです! 中に入れて頂けませんか?」
 尾寺が焦った様子で訳を説明すると、桂は「はよ入れ」と言って戸を開け、尾寺を部屋の中に入れた。
「ところで寅次郎先生のこととは一体どねーなことなのじゃ?」
 部屋の中に入ってきた尾寺に桂が早速尋ねる。
「先生の遺骸を幕府から取り戻すことに成功しました。わしと飯田さんで伝馬獄の獄吏にかけ合うて遺骸を取り戻そうとしたのですが、これがなかなかの石頭で話が通じず、周布様と北条様が公金から出してくれた二十両を奴らに渡してやっと話が通じました」
 尾寺から寅次郎の遺骸の知らせについて聞いた桂と利助は驚いた表情をし、
「おお! でかしたぞ! しかしまさか周布様が先生のために二十両もの公金を出して下さるとは! して先生の遺骸は今どこにあるのじゃ? 小塚原の回向院か?」
 と桂が尾寺に尋ねると、
「はい。もうすでに飯田さんが小塚原に向かうております。ただ先生の遺骸を取り戻したとはいえ、先生はあくまで幕府に仇を為した罪人のままじゃけぇ、小塚原の回向院以外の場所に埋葬することはできませぬ」
「それでも構わぬ! 先生の遺骸を幕吏共の手で無造作に葬られるよりはずっとましっちゅうもんじゃ! さあこうしてはおれん! 僕らも小塚原へ急ごうっちゃ」
 桂が急かす様にして尾寺と利助に言うと、二人ともすぐに身支度を整える準備を始めた。





 尾寺の知らせを受けてから一刻後、桂達は千住小塚原にある回向院下屋敷常行庵にたどり着き、そこで飯田正伯と落ち合った。
「やっと来たか! ずっと待っておったんじゃぞ、尾寺」
 回向院の入口付近で飯田が尾寺に声をかけると、
「それは済まんかった、支度に手間取ってしまってな」
 と尾寺が謝罪した。
「先生の遺骸はどこにあるんじゃ? 飯田」
 早く寅次郎を埋葬したくて仕方がない桂が尋ねてきた。
「先生の遺骸なら四斗樽の中に入れられて、橋本左内の墓の左方に置かれちょります。ここで立ち話するもなんじゃけぇ、早う中に入りましょう」
 飯田の提案に従って、四人は回向院の中に入っていった。





「これがあの寅次郎先生なのか……」
 四斗樽の蓋を開け、師の遺骸を見た尾寺が衝撃を受けた表情で呟いた。
 樽の中の寅次郎の遺骸は首と胴に分かれていて、首は髪が乱れて面を掩っており、身体は丸裸で、斬首されたときについた血が至る所に付着している。
「ああああああああ! 寅次郎先生!」
 変わり果てた寅次郎の姿を見るのに耐えられなくなった利助は、その場にうずくまって泣き出した
「先生……」 
 桂も苦悶に満ちた表情で一言呟くと、言葉を何も発することができなくなり、飯田や尾寺も苦痛に顔を歪めたまましばらくの間何も言えず、ただじっと立ち尽くしているだけだった。
 四半刻後、ようやく気を取り直した桂が、
「さあ悲しむのは後にして、早う先生を埋葬しよう。先生の遺骸をこのままにしておいては、余りにも先生が気の毒じゃけぇ、僕等で先生の遺骸を埋めるんじゃ」
 と他の三人に言うと、
「うっうっうっ。桂さんのゆうちょる通りじゃ。早う先生の遺骸を埋めましょう。でもその前に先生の遺骸をちゃんと清めなければいけん。首も体もきれいにした上で先生を埋葬しましょう」
 と利助が泣きながらも桂に最もな提案をした。
「それもそうじゃな。ではわしが先生の首を洗うけぇ、桂さん達は先生の体をきれいにしてくれんか?」
 桂の代わりに飯田が答える。
 利助のこの提案に従い、飯田が寅次郎の髪を結って顔を洗い、桂達が寅次郎の体に付着した血をきれいに落とした。
 その後、飯田が着ていた黒羽二重の下着を脱いで寅次郎の身体に着せると、桂が襦袢をその上に着せ、さらに利助が着物の帯を解いて寅次郎の体に結び、師の遺骸を四斗樽の中へと戻してその上に首を載せ、四斗樽に再び蓋をした。
「あとはこれらの鋤で穴を掘って、そこにこの樽を入れれば埋葬は終いじゃ。そういえば墓石は一体どねーするんじゃ? この辺りに先生の墓石らしきものは見当たらぬが」
 桂が飯田に尋ねた。
「それも周布様達に頼んで、六尺ばかりの墓石を後日建てる段取りがついちょります。先生の異名である二十一回猛士が刻まれた墓石を建てる段取りが」
 飯田が桂の問いに答える。
「そうであったか。全く周布様には何から何まで世話になりっぱなしじゃのう。あとでお礼を申し上げねばいけんな……」
 桂はふっと微笑しながら呟くと鋤を手に持って穴を掘りだしたので、あとの三人も桂に続いて鋤で穴を掘り始めた。


 
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