第38話 九州遊歴

文字数 2,313文字

  安政三(一八五六)年三月六日、十七歳になった玄瑞は父と兄の四周忌を終え、九州北部へ三ヶ月にわたる遊歴に出ることに決まった。
 玄瑞は前年の十二月頃から眼病を患い、藩医の山根文季の診断を受けても治らなかったため、文季の勧めもあり、福岡藩医の田原養朴に目を診てもらうという名目で旅の許しを得た。
 萩を立った玄瑞は秋吉台を経て河原、馬関へと赴き、関門海峡を小舟で渡って九州豊前の小倉に上陸すると、京都郡稗田村(みやこぐんひえだむら)の詩人である村上仏山や上毛郡薬師寺村の儒者の恒遠醒窓(つねとおせいそう)を訪問した。
 寅次郎の友人でもある宮部はこの頃、前年六月に起こった水前寺事件により山鹿流兵学師範の職を解かれたため、熊本城下を離れて故郷の南田代村に隠棲していた。
「貴殿が久坂殿か。長州からわざわざこん辺鄙な村までよく来てくれたばい」 
 宮部は久坂を温かく出迎えた。
「ありがとうございます。今日宮部殿を訪ねたのは他でも御座いません、攘夷の大義について議論したく参った次第であります」 
 久坂は手短に訪問目的を述べると早速本題に入り、
「今の幕府の面々はみな宋の秦檜の様な者ばかりじゃと私は考えちょります。秦檜はかつて宋の宰相でありながら、自らの地位を守る為だけに金に屈服し、岳飛等主戦派を尽く退け国を滅亡に追いやりました。昨年幕府の面々は、オロシアやメリケンの圧力に屈して条約を結びましたが、これはかつて秦檜が金に屈したのと同義であります。今こそ清の林則徐のような者が立ち上がらなければ、この神州は外夷に蹂躙されてしまうでしょう」 
 と古の中国の故人を例に挙げて幕政批判を始めた。 
 玄瑞は月性の様に討幕や王政復古の考えにこそ走らなかったが、西欧列強に対して弱腰の幕府には心底不満であった。
「そして、林則徐のような者が立ち上がった暁には、条約を破棄して、長崎や下田、函館から異人共を一人残らず追い払い、元の鎖国状態に戻すべきだとも考えちょります。宮部殿は攘夷について如何お考えか?」 
 久坂が得意げな様子で宮部に尋ねる。
「儂の考えも久坂殿の考えとほとんど同じばい。確かに今の幕府の面々は外夷に対し、余りにも体たらく過ぎるばい。ペルリが去った後で江戸湾に急ごしらいの台場を設けているようでは、正直先行きはとても危なか。こんままではこん国も阿片戦争で負けた清と同じになってしまうばい」 
 宮部は久坂の言い分は最もだと認めており、久坂も自身の意見は絶対に間違いないと確信しているようだ。
「ばってんそげん言うても、こん国のどこに林則徐のような者がおると考えとっとか? 三百諸侯の内の誰かか? それとも京の公家の内の誰かか? それに条約を破棄して異人共を追い払うのはええとして、それでもしメリケンやオロシアと戦になったらどげんするつもりったい? 久坂殿のお考えば是非お聞かせ願いたい」 
 宮部はまるで久坂を試すかのような口ぶりだ。
「それは草莽の中におると思っちょります。この神州には優れた学者や思想家が数多く野に埋もれちょりますが、かの林桜園先生に学問を学び、山鹿流兵学師範として多くの門弟に尊皇攘夷の志を説いた宮部殿こそ、最も林則徐に近い御方のようにお見受け致しまする。そして、仮にメリケンやオロシアと戦になるようなことになったとしても、天朝の元に幕府と三百諸侯、草莽の志士達の力を集結させさえすれば、かつての蒙古襲来の時のように奴等にも打ち勝つことができましょう」 
 久坂が毅然とした態度で質問に答えると、宮部は大笑いながら、
「それは大層な考えったい。ばってん大多数が幕府以上に窮乏して自国を保つのが精一杯の三百諸侯や、玉石混交の草莽の志士達を一つに束ねるのは容易ではないことを忘れてはならんったい。それに久坂殿は買い被りが過ぎるばい。儂など何の物の足しにもならん男ったい。真の林則徐とは、長州の吉田寅次郎殿のような者の事ば言うんたい」 
 と言って久坂の評を否定する。
「久坂殿も同じ長州人なら名ぐらいは知っとるはずったい。吉田殿は外夷に対抗するために諸国ば遊歴して見聞を広め、さらに西洋の技芸や知識を学ぶために、自身の身も顧みず下田でメリケンの黒船に密航しようとした、正に真の武士ばい。もし長州に帰られたら一度訪ねてみるのがよか」 
 宮部は寅次郎に会うことを提案すると、机の上に無造作に重ねられた本の一冊を取り出して、それを久坂に手渡した。
「これはかつて儂が敬愛する桜園先生が書いた『宇気比孝』ったい。桜園先生はこん本の中で、中古以来途絶えていた宇気比を復活させ、そん宇気比による神のお言葉をば神命として、祭政一致の政を行うことを説いてるったい。こん本は久坂殿に差し上げるち、是非読んでみて欲しいたい」
「ありがとうございます、宮部殿。この遊歴において貴方様にお会いできたことが一番の収穫であります」 
 久坂は宮部から手渡された本を恭しく受け取る。
「ところで久坂殿は今後どげんするつもりったい?」
「長崎へ参り、異人共の館や黒船を視察するつもりであります。その後はかつて蒙古が襲来した古戦場を訪ね、かの亀山上皇が宸筆額を奉納したっちゅう箱崎宮にも足を運ぶつもりであります」
「それは真にええことったい。ばってんそん前にせっかく肥後まで来られたち、清正公の廟に参られてから長崎へ行くでも遅くはなか。文禄・慶長の役で武功を立てた清正公は、攘夷を志す者にとっては尊敬すべき英傑、是非一度足を運ぶのがよか」 
 宮部がにっこり笑って言う。
「ありがとうございます。宮部殿の仰る通り、清正公の廟に参った後に長崎へ参りたいと思います」 
 久坂は宮部に礼を言うと村を後にして、そのまま清正廟へと向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み