第55話 アメリカ総領事ハリス

文字数 1,848文字

 その頃、開港地の下田では、日米和親条約の規定でアメリカ総領事に就任したハリスと、下田奉行の井上信濃守清直及び中村出羽守時万が、江戸出府を巡って何度も談判を繰り返していた。
 ハリスは安政三年八月に日米和親条約の規定で、アメリカ総領事として下田に赴任して以来、江戸に出府して将軍家定に大統領の親書を渡すことを主張していたが、攘夷派の前水戸藩主徳川斉昭等諸大名の反発を受けていた幕府の意向により、ぶらかされてこの下田で足止めを食らっていた。
 この日もアメリカの総領事館である玉泉寺でハリスと井上信濃守達が談判を行っていた。
「貴方方はなぜ私が江戸に行くことをしきりに拒むのですか? なぜ私を江戸の大君からしきりに遠ざけようとするのですか?」
 ハリスは通訳のヒュースケンを介して下田奉行達に抗議をした。
「何も拒んでいる訳ではござりません。過去に蘭人を江戸に出迎えて公方様と謁見させた例はござりますが、アメリカ人を江戸に出迎えた前例はただの一度もなき故、その支度に手間取っているのでございます」
 井上信濃守は落ち着き払った様子でハリスに応対する。
「貴方方が最初にそう仰られてからもう一年近く経とうとしているが、一向に支度が整う気配がないではないか! 貴方方はただ私の江戸出府を阻止したいから適当なことを言っているだけではないのか?」
 ハリスは下田に長いこと足止めされていたのに加え、吐血をするほど体調が悪化していたため、その苛立ちは頂点に達していた。
「いえ、別にそのような訳では決してございませぬ。貴殿の国とは違い、我々の国は何か重大なことを決定するのに極めて時を要するのでございます」
 中村出羽守が苛立つハリスを宥めにかかる。
「私が江戸の大君との謁見を要求する理由は、大君に大統領の親書を渡してこの国にせまる危機を伝える、ただそれだけのことだ! 貴方方は今現在、隣の清国がイギリスとフランスに攻めこまれていることをご存知ないのか?」
 ハリスは癇癪をおこしたいのをどうにかこらえて、奉行達に自身の目的を話したが、奉行達の反応が薄かったため、ついに怒りを爆発させて、
「もういい! 貴方方と話あっていても埒があかない! 貴方方よりももっと上の立場の人と話をさせろ!」
 と喚きちらすと急にゴホゴホと咳き込んで吐血した。




「閣老達のご指図でこの一年近く粘ってきたが、そろそろ限界か……」
 ハリスが吐血したのを機に領事館から引き上げ、奉行所に戻った井上信濃守がぼやく。
「確かにこれ以上儂らの力でハリスを下田に止めておくのは正直難しいのう。一度備中守様のご指図を仰いだ上で、これからどう対処していくか考えねばなりませんでしょうな」
 中村出羽守が表情を険しくしながら言った。
「出羽殿の仰る通りかもしれん。儂はこれを機に備中守様に貨幣の同種同量の交換や開港地におけるメリケン人の在住、長崎の開港等を認めるべきことを進言しようと考えておる。特に貨幣の同種同量の交換は江戸出府同様、ハリスがしきりに要求していたことだから、この下田でそれを認めてしまえば、もしかしたらハリスも満足して江戸出府を諦めてくれるかもしれん」
 井上信濃守は希望的観測を口にしつつも、出羽守同様その表情は依然厳しいままだ。
「確かに貨幣の同種同量の交換を含めた諸々の要件をこの下田で認めれば、なるほどハリスは喜ぶであろうが、果たしてそれで江戸出府を防げるであろうか? ハリスは公方様に親書を渡すだけでなく、我が国と通商条約を結ぶことも画策しているに違いない。ペルリと結んだ先の条約では通商ができんからの」
 中村出羽守が言う。
「仮にそうであっとしても下田奉行である以上、何もせずに手をこまねいているわけにはいきませぬ。メリケンとの交渉の最前線に立っている儂らの肩に、この国の行く末がかかっているといっても過言ではありませぬので」
 井上信濃守は改めて覚悟を固めたようだ。




 奉行達の会話から三ヶ月後の五月、ハリスと井上信濃守達との間で、日米和親条約の内容を改定した下田協約が結ばれた。
 この協約において、日米間の貨幣の同種同量の交換や開港地におけるアメリカ人の在住権、長崎の開港、領事裁判権等が正式に認められた。
 特に貨幣の同種同量の交換が認められたことにより一ドル銀=一分銀から、量目(重さ)を基準にして一ドル銀=三分銀に変わったことは、後に日本からアメリカに金が大量に流失し、物価が上昇するきっかけへとつながっていくことになる。



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