第136話 玉川の遠乗り

文字数 2,130文字

 文久元(一八六一)年八月。
 世子定広の御小姓役の他に江戸御番手役を藩から拝命した晋作は江戸へ行き、桜田の長州屋敷にいる定広の御側近くに本格的にお仕えすることとなった。
 御番手役を拝命した晋作は隔日で定広の御前に出ることは勿論、書経御会や剣術御覧の付きそい、玉川(現在の多摩川)あたりへの遠乗り、毛利家墓所の一つである瑞聖寺御参詣の供をしたりして日々を過ごしていた。
 定広の御側近くにお仕えするようになってから十五日が過ぎようとしていたある日、晋作は定広と供に遠乗りで玉川の矢口の渡しのあたりまで出かけていた。
「この辺りはまっこと景色がきれいじゃのう!」
 矢口の渡し付近の草むらで馬から降りた定広が穏やかに流れる玉川を見ながら感想を述べる。
「左様でございまするな」
 定広同様馬から降りた晋作が畏まった様子で言う。
「明倫館の射術場でお主に初めて会うてからはや十年が過ぎたが、まさかこねぇにしてお主と遠乗りできる日がくるとは思わなんだ! 世の中不思議なもんじゃのう!」
 定広は矢口の渡し方面に向かって玉川を運航している渡し舟を見ながらうれしそうに言った。
「わしも同じ気持ちです。若殿様」
 晋作は相変わらず畏まったままでいる。
「そう言えばこの矢口の渡しはかつてあの新田義興が最期を遂げた地であることを知っとったか? 晋作」
 古くから伝わる矢口の渡しの伝承について思い出した定広が晋作に尋ねた。
「知っとります。『太平記』は幼少のころからよく読んどりました。義興はあの新田義貞の子で、楠木正行とも肩を並べた南朝方の武将で御座いましょう?」
 晋作が澄まし顔で尋ね返すと、定広は、
「その通りじゃ! 義興は父の義貞にも引けを取らぬ勇敢な武将であり、後醍醐帝の忠臣でもあった武士じゃ! 義興は父の義貞が越前国であえない最期を遂げた後、父の遺志を引き継いで南朝方の主力となり、足利尊氏を幾度も苦しめる活躍をしたが、義興を厄介な敵と睨んだ鎌倉公方の足利基氏と関東管領のは畠山国清の謀略により、この玉川に沈められて非業の死を遂げることと相成った! 彼がもう少し長生きしとったら足利の天下がきとったかどうか分からんかったとわしは思うとる!」
 と笑顔で新田義興のことを嬉々として語った。
「若殿様は義興の事が大層お好きなのですね」
 晋作がにべもなく言うと続けて、
「今日は若殿様に折り入って申し上げたき議が御座います。ええでしょうか?」
 と定広に意見したいことがあることを伝えた。
「構わん。申してみよ」
 定広が意見の具申を軽い調子で認める。
「若殿様は何故長井の『航海遠略策』による公武周旋に協力されるんでしょうか? 何故長井が老中の安藤対馬守や久世大和守等と手を結ぶための切っ掛けづくりなどされるんでしょうか?」
 晋作が真剣な面持ちで定広に尋ねると定広の顔から笑顔が消えた。
「そねぇなことを聞いてどねぇするつもりじゃ? 晋作。わしが『航海遠略策』の実現に尽力すことが不服と申すか」
 定広が険しい表情をしながら晋作ににじり寄る。
「不服であります! 帝は攘夷のご意思を示されとるけぇ、幕府も諸侯もそれに従うんが当然であります! しかし『航海遠略策』は帝の意に背いて姑息な幕府に加担し、外夷に屈することを良しとしとります! そねぇな策を藩是にしたら長州は天下の人々から不忠と謗られます! 将来この長州を背負って立つ若殿様が長井のような佞臣にたぶらかされるようなことなどあってはならぬのであります! 長井など早々に罷免して長州も薩摩や水戸を見習って尊皇攘夷に邁進すべきなのであります!」
 晋作が定広に諫言すると、定広は「はぁー」と思い切り溜息をついた。
「晋作よ。お主も江戸や京におる尊皇攘夷の志士共に毒されたくちじゃな」
 定広が呆れたように言う。
「毒されてなどおりませぬ! わしはただ正道を……」
「口答えするな! 長井の『航海遠略策』は帝の意に反するものでもなければ、幕府を助けて外夷に媚びへつらうものでもない! 長井は朝廷優位の公武一和を実現した上で外夷と対等に通商航海をすべく朝廷や幕府の周旋をして回っとるのじゃ! 現に議奏の実愛卿を通じて長井の考えを知った京の帝はいたくお喜びになられ、父上に帝がお使いになられた食器や扇子などを下賜されとる! じゃけぇお主の批判は的外れもええ所じゃ!」
 定広の怒りはまだ収まらない。
「それに長井は佞臣などではない! 長井はお主の父である小忠太同様長きに渡ってこのわしを支え続けてくれた忠臣であり、我が毛利家の宝じゃ! 長井を悪くゆうことはこのわしが断じて許さぬ! もし長井の邪魔立てをしたり、害をなそうとしよる者が現れたら、そ奴はまぎれもなく長州の、我が毛利家の敵である! そのことをくれぐれも忘れるでないぞ!」
 定広が晋作に怒りを全てぶつけると、晋作は慌てて、
「申し訳ございませぬ。出過ぎた真似を致しました。以後気を付けますけぇ、何卒ご容赦下さい」
 と定広に謝った。
「日が落ちてきたな。この辺りもじき暗くなるけぇ、早うここから立ち去って近くの村で宿を借りるぞ」
 定広が草むらにいる自身の馬の所に戻っていったので、晋作も自身の馬の所に戻って帰り支度をした。
 

 
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