第36話 玄瑞と月性住職

文字数 1,840文字

 この頃、優秀さを認められて好生館の藩費入寮生となった久坂秀三郎改め玄瑞は、医学を学ぶ傍ら亡き兄玄機のかつての旧友である月性に師事し、読書や詩文の手ほどきを受けていた。 
 月性は周防国玖珂郡遠崎(すおうのくにくがぐんとおざき)にある齢三十九の妙円寺の住職で、海防策を説くべく防長二州の各地を歩いて回っていたため海防僧と呼ばれていた。 
 玄瑞は月性が萩城下塩屋町に住む知人の土屋矢之助(蕭海(しょうかい))の元に滞在していることを知ると、好生館の講義が終わった後にこの海防僧に会うべく土屋の屋敷へ足を運んだ。
「おお、久坂君か! よう来てくれた」 
 土屋方を訪ねてきた玄瑞に対し、月性がうれしそうに声をかける。
「御無沙汰しております、月性様。本日は月性様が土屋殿の御屋敷にいるとお伺いして、こちらに参った次第であります」 
 玄瑞が礼儀正しくあいさつすると、奥の方から土屋が姿を現して、玄瑞を屋敷の中へと招き入れる。
「坊主頭もなかなか様になっちょるのう、久坂君。今の君を見ちょると亡き玄機殿が思い出されて敵わん」 
 月性同様かつての玄機の友の一人であった土屋が、玄瑞の坊主頭を見て往事を懐かしみながら言った。
「ありがとうございます、土屋殿。 ですが私如きはまだ亡き兄上には遠く及びませぬ」 
 玄瑞は土屋の評に対し謙遜する。
「そねー慎み深い所もまた亡き玄機殿を彷彿とさせるのう。して今日儂を訪ねたのは一体如何なる用向きなんじゃ?」 
 月性が玄瑞に対し率直に尋ねた。
「私が此度月性様を訪ねたのは外でも御座いません、貴方様の海防策についてお伺いしたく参りました。亡き兄上は御殿様に海防策の意見書を具申することに命を懸け、ついにその命を散らしました。じゃけぇ私は亡き兄の志を継いで海防策を学びたいと存じている次第であります」 
 玄瑞が訪問目的について答えると、月性は感心した様子で、
「なるほど、そねーな訳であったか。なかなか立派な志じゃ。亡き玄機殿も地下で喜んでおることじゃろう」 
と言ってそのまま自身の海防策について話し始めた。
「玄機殿も生前にゆうちょったことじゃが、日本はもちろんこの防長二州も四方を海に囲まれちょる以上、いつどこから異国船が姿を現すか分からんのが現状じゃ。そして、それに備えるためには一刻も早く海軍を創設し、沿岸に砲台を建設せねばいけん。じゃが今となってはそれだけでは足りん。ペルリが来航して以降の幕府の無為無策ぶりは目に余るものがあり、今後もし再び夷狄が来るようなことがあれば、幕命を待たずして我が長州が率先してこれを撃ち払わねばいけん。そして幕府が攘夷に協力しない暁には、勅命を奉じ、同志の諸藩と共に勤王の義兵を挙げて幕府を討ち、夷狄を打ち払い、この神州の政を再び帝に戻さねばいけんのじゃ。ここまで事を成して初めて真の海防と言えるのじゃ。久坂君は海防について如何に考えちょる?」 
 月性は自身の海防策を語り終えるとお茶を飲んで一服した。
「確かに夷狄に対する幕府の無為無策ぶりは目に余りますが、じゃからとゆうて幕府を討って政の権を再び帝に戻すゆうんは、いささか性急すぎるのではありませんか? この神州が今まで独立を保ってこれたんは、ひとえに幕府と天朝が安泰であったからにして……」 
 玄瑞は困惑しながら月性の問いに答える。
「久坂君ともあろう者が一体何をゆうちょるんじゃ! 性急すぎることなど決してないっちゃ! メリケンやオロシアと条約を締結してしもうた今となってはむしろ遅いぐらいじゃ。もし玄機殿が生きちょったら、儂の意見に賛同して御殿様にその旨を具申しちょるぞ!」 
 玄瑞から期待していた答えが返ってこなかった事に対し、月性は怒りを露わにした。
「どうやら君は医学の勉強ばかりで、天下の形勢については疎いと見える! 諸国を遊歴してもっと見識を深めることに努めるべきじゃ!」 
 月性は憤慨しながら土屋の屋敷から出て行った。
「そねー気を落とすことはないっちゃ。この長州において、あの方の考えは異端じゃとゆう認識になっちょる。攘夷の為なら幕府を討つことも辞さぬなどという考えを御殿様が認めるはずがないしのう」 
 月性の怒りをかって肩を落としている玄瑞を土屋が慰める。
「ありがとうございます。じゃが確かに私は諸国を遊歴してもっと見識を深めるべきなのかもしれません。亡き兄上もかつて大坂へ行き、見聞を広めることに努めちょりましたけぇ、私も見習わねばいけんようです」 
 玄瑞は落ち込みながらも、その胸に新たな志を立てた。

 
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