第93話 塾生達との別れ

文字数 1,342文字

 安政六(一八五九)年五月二十四日。
 萩を発つ前日に、寅次郎は獄吏である福川犀之助の計らいで、一晩だけ松本村の杉家に帰ることを許され、杉家に帰っていた。
 寅次郎は杉家に戻るとすぐに松下村塾の塾舎へ赴き、寅次郎に一目会うべく集まった久坂玄瑞、松浦亀太郎、山田市之允、山縣小助、品川弥二郎等塾生達に別れを告げていた。
「一度絶交を申し渡したにも関わらず、まだ僕を慕うてくれちょる塾生がおるとは。僕はまっこと幸せ者じゃのう」
 久坂達の顔を一人ひとり見ながらうれしそうに寅次郎が言う。
「一度絶交を申し渡されたぐらいで先生とわし等の縁は切れたりしませんよ。この村塾で培った師弟の情はそねー浅いものではないですからのう」
 久坂が真面目腐った表情で言った。
「久坂さんのゆうちょる通りです! わし等は死ぬまでずっと先生の塾生であります!」
 品川も久坂同様真面目腐った表情で師弟愛を強調する。
「とはゆうてもわし等が途中から先生についていけなくなったんも、また事実なんじゃけどな」
 寅次郎から絶交状が届いたときの事を思い出しながら、小助が自嘲気味に言った。
「そねー嫌なことをゆわんで下さいよ、山縣さん」
 市之允が嫌悪感を露わにして小助につっかかる。
「先生とこねーしてお会いできるのはこれが最後なのですよ。少しは場を弁えてください」
 市之允が小助に苦言を呈すると、寅次郎は笑いながら、
「その事についてはもう気にする必要はありませんよ、山縣君」
 と優し気な口調で言うと続けて、
「君達にもそれぞれ事情があるっちゅうことを考えず、勝手に僕の計画に巻き込もうとしてしもうたのはまっこと申し訳なかった。生き急ぐ余り、僕は正気を失っておったのかもしれん」
 と今度は申し訳なさそうな顔をして塾生達に謝罪した。
「君達はこれからも親兄弟やお殿様への忠孝を忘れることなく、藩のため、この日本国のために存分に働いてくれろ。僕はもういなくなるが、久坂君や松浦君、今この場にはおらんが高杉君や佐世君、入江君達がおれば充分やっていけるはずじゃ。君達もこの国をしょって立つ草莽の志士じゃけぇ、期待しちょるぞ」
「せ、先生!」
「うわああああああああ!」
 寅次郎が塾生達に自身の遺言ともとれる言をゆうと、その場に居た塾生達は感極まって皆泣き出した。
 しばらくの間、誰も言葉を発することなく、ただ塾生達のすすり泣く声ばかりが聞こえていたが、亀太郎が涙と鼻水でぐずぐずになった顔で、
「先生! 最後に先生のお姿を肖像画として描かせてもらってもええでしょうか?」
 と寅次郎に提案するとその場の空気が変わった。
「わしは魚屋の子ではありますが、子供の時分からずっと絵を描くことが得意で御座いました! じゃけぇ先生が江戸に行かれる前に、ぜひ先生のお姿を肖像画に留めておきたいと存じちょります!」
 亀太郎の提案に対し寅次郎は「よろしい」とだけ言うと、他の塾生達もこぞって賛同し、
「それでしたら肖像画を描いた後に、その上に先生の賛を加えるのは如何でございましょうか? 先生の偉業は肖像画とともに後世に伝えるべきじゃとわしは思うとります」
 と久坂が提案すると、寅次郎はそれにも承諾したため、亀太郎は早速手元にあった絵画道具と紙を使って、寅次郎の肖像画を描き始めた。

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