第135話 久坂達の策略

文字数 2,321文字

 長井の説得に失敗した久坂は桜田の長州屋敷内にある長屋の一室にて、同志の桂小五郎や伊藤利助達と今後のことについて話し合っていた。
「やはり駄目でございました」
 久坂が首を横に振りながら言う。
「長井はあくまでも御殿様のご意思と称して『航海遠略策』による公武周旋を進めるつもりであり、わし等のゆうとることに耳を貸してくれませぬ」
 久坂が落胆して大きなため息をつく。
「長井がわし等のゆうとることに耳を貸さぬのは当然じゃ!」
 利助はそんなことは分かりきったことだと言わんばかりの口調で言うと、
「奴は幕府に媚びを売るために寅次郎先生を井伊の赤鬼に引き渡した下劣極まりない奴じゃ! 奴は今それだけに飽き足らず、今度は『航海遠略策』などとほざいて御殿様をたぶらかし、朝廷を圧迫して幕府の力を強め、外夷に媚びへつらおうと画策しとる! 奴こそ長州の恥辱、稀代の大悪党なのであります! こねぇ不埒な奴はさっさと斬り捨ててしまえばええんです! そねぇすれば先生の仇もとれるし、長州、いんや皇国が間違った道を突き進むことも防ぐことができます!」
 と長井の誅殺を主張しだした。
「馬鹿なことを申すな、利助」
 桂が長井の誅殺を主張する利助を咎める。
「もし長井を斬り捨ててしもうたら、わし等は御殿様の怒りに触れてみな打首獄門の憂き目に遭うことになるぞ。長井は御殿様に痛く気に入られとるけぇ、奴を誅殺したらわし等が逆に藩に仇をなした賊として後の世に語り継がれることになるやもしれぬ。それにわし等が最終的に成し遂げねばいけんことは長州を、皇国を外夷の侵略から守ることじゃ。長井如きのために命を粗末にするような真似をしてはいけん」
 桂が利助に長井誅殺など止めるよう説諭した。
「ならどねぇすればええんですか? このまま長井がのさばり続けちょる限り、長州が破約攘夷の実を行うことなど夢のまた夢ですよ!」
 長井を斬る事を反対された利助が桂に食ってかかる。
「今萩から江戸に向こうとる最中の手元役の周布様と晋作を味方につけることじゃ。周布様はご重役の一人で亡き寅次郎先生とは懇意の仲じゃったからか、先生の弟子であったわし等の考えにも理解を示して下さり、わし等が先生の亡骸を幕吏から取り戻すときもご助力してくれた。今は長井の『航海遠略策』のために働かされとるそうじゃが、わし等が説諭すればきっと味方になって下さるはずじゃけぇ、周布様が江戸に着き次第説諭をしてみようと思うとるのじゃ」
 桂が周布と晋作を自分の陣営に引きずり込むことで長井に対抗するつもりだ。
「また晋作はわし等と同じ寅次郎先生の弟子であることは勿論、数か月前に若殿様の御小姓役を拝命して藩政に大きく関わる立場になったけぇ、周布様同様味方になってくれれば百人力じゃ。それに晋作の父の小忠太殿は若殿様の奥番頭であるとともに長井の竹馬の友でもあり、晋作を通じて小忠太殿も味方になってくれれば長井の『航海遠略策』を頓挫させ、奴を失脚させることができるやもしれん」
 桂が自身の考えを余すことなく述べると、利助はしぶしぶながらも長井の誅殺を諦めることにした。
「周布様を味方につけるっちゅうのは分かりますが、晋作を味方につけるのは難しいんではありませぬか?」
 渋い顔をしながら久坂が桂に尋ねる。
「それは何故じゃ? わしに訳を話してくれんかの?」
 桂が不思議そうに尋ね返す。
「晋作が高杉家唯一の跡取りだからですよ。高杉家は洞春公以来の毛利家譜代の家柄であり、その高杉の血筋を守れるか否かは晋作にかかっちょるとゆうても過言ではありませぬけぇ、わし等と供に危険な橋を渡るような真似はできんと思うのであります。それに晋作の御父上はわし等寅次郎先生の弟子達を忌み嫌うとり、事あるごとにわし等に関わってはいけんと晋作にゆうとるような有様であります。そねぇ考えの御父上がわし等の味方になることはおろか、晋作がわし等に肩入れすることも絶対に許すはずがないのではないでしょうか」
 久坂が訳を桂に話すと、桂は、
「そうであったか……」
 と言って肩を落とした。
「そういえば桂さん、栄太は今どねぇしとるんでしょうか?」
 利助が唐突に吉田栄太郎のことを持ち出す。
「栄太は藩からの密命で昨年十月に兵庫の長州陣営を出奔して、今はこの江戸におるのでございましょう? 栄太はこの江戸で一体何をやらされとるんでしょうか?」
 利助が栄太郎の近況について桂に尋ねる。
「栄太郎は今柴田東五郎っちゅう者の元に身を寄せとる。柴田東五郎は一千石の旗本田中市郎右衛門の用人であるが、元は薩摩の人間じゃけぇ、わし等と同じく尊皇攘夷の志をもった同志の一人じゃ。栄太郎は近々この東五郎の紹介でどこかの旗本の家臣となって、そこで隠密活動に従事してもろうことになっとる。藩は栄太郎を通じて幕府の動向を探るつもりでおるのじゃ」
 桂が栄太郎のことについて語ると、利助はそうじゃったのかと言って納得した。
「長井のことも去ることながら幕府も何とかせねばいけんな。安藤対馬守や久世大和守とゆうた幕吏の連中は和宮様の東下を今も着々と進めとるに違いないっちゃ。薩摩や水戸の有志との横議横行をより重ねてこれを阻止せねばいけん。わし等の周りは敵だらけ、行く手を阻む壁だらけじゃ」
 桂が幕府の事に触れたのに便乗した久坂が和宮東下の話題を持ち出す。
「その通り。長井に幕府に外夷にとわし等の周りは敵だらけじゃ。じゃがこれ等全てを乗り越えていかなければわし等に先はない。わし等に逃げ道などはないのじゃ。あるのは前に突き進んでいく道ただそれのみ」
 桂が真っ向から困難に立ち向かうしかないことを告げると、久坂も利助も改めて覚悟を固めた。

 
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