第118話 燻る二人

文字数 2,544文字

 その翌日、晋作は撃剣・文学修行での江戸逗留に変更することへのお許しを得るべく、上屋敷内にある上役の嘉山三右衛門の部屋を訪ねていた。
「やはりわしには航海術を向いとりませんけぇ、どうか撃剣・文学修行での江戸逗留に変えることをお許し頂けんでしょうか?」
 晋作が三右衛門に懇願している。
「何をゆうとるんじゃ! そねぇなこと認められるわけがなかろう!」
 三右衛門は顔を真っ赤にしながら晋作を怒鳴り散らした。
「貴様が丙辰丸の乗員の一人に選ばれたんはな、将来の我が藩の海軍の士官候補を育てるためなのじゃぞ! 異人共が虎視眈々と我が国を侵略しようとしとる今この現状において、海軍の養成がどれだけ大事なことか分からぬ訳ではあるまい! 貴様の肩に我が国の行く末がかかっとるとゆうても過言ではないのじゃぞ!」
 三右衛門は怒りながら晋作を説教している。
「それは重々承知しとります。じゃが、わしには航海術はとても……」
「ぐじぐじゆうでない! 貴様はそれでも侍か!」
 煮え切らない様子の晋作に三右衛門が一喝した。
「全く、どこまでも人を苛つかせる奴じゃ! そねぇふざけたことをゆうてる暇があったら、航海術を記した書物の一つや二つでも読んで少しは藩の為になることをせい!」
 




 その後も晋作は三右衛門にくどくど説教され、四半刻経ってようやく忙しいからもう帰れと言われて部屋から出ていくことを許された。





「はは、晋作もいろいろ災難じゃったのう」
 久坂が笑いながら晋作に言う。
 晋作は三右衛門の部屋を出た後、晋作より一月早く江戸に着いていた久坂に麻布の下屋敷近くにある酒楼「三松屋」に呼びだされて、供に酒を酌み交わしていた。
「他人事みたいにゆうな、久坂」
 三右衛門に怒られた晋作が不機嫌そうに言う。
「もしこのまま志望を変えることが認められんかったならば、わしゃあ最悪江戸から出ていかねばいけんようになるやもしれんのじゃぞ! 江戸に来て何も為せずじまいのまま空しく萩に帰るなど、恥以外の何物でもないっちゃ!」
 すっかりご機嫌斜めになっている晋作はぐいっと盃の酒を飲み干した。
「まあ、そねぇ腹を立てんでもええじゃろ。わしも英学修行の名目で江戸に参ったにも関わらず、英学がさっぱり理解できんくてすっかり心が折れてしもうた。蘭学と違ごうて英学は辞書も乏しくてな。まさかこねぇなことになるとは夢にも思わんかった」
 久坂がばつの悪そうな顔をしながら己の挫折について語る。
「ところで晋作、おめぇは本当にわしと会うても大丈夫だったんか? 呼び出したわしがゆうんもおかしな話じゃが、もし父上にばれたらことではないんか?」
 寅次郎の百日祭での出来事を思い出した久坂がふいに尋ねてきた。
「大丈夫じゃ。父上はわしと入れ替わりで江戸から萩へと戻られたばかりじゃからな」
 晋作は心配は無用とばかりな調子で言うと続けて、
「しかし村塾きっての秀才であったおめぇがそねぇ弱気になるとは、英学は余程難しい学問なのじゃな」
 と率直な感想を述べた。
「難しい学問じゃ。じゃがエゲレスやメリケンと条約が結ばれたこのご時世において、英学こそが全ての源じゃけぇ、学んどいて損はない」
 久坂が英学の必要性について肯定したあと続けて、
「とゆうてもわしの興味はもう英学にはないのじゃがな」
 と意味深な発言をした。
「そうか。では一体どねぇなことにおめぇの興味があるんじゃ? 幕府の政の動きについてか?」
 晋作が尋ねる。
「そうじゃ。彦根の大奸物は水戸の浪士達に誅されたが、その子分である老中の安藤対馬守や久世大和守が異人共にこびへつらう政を行っておるけぇ、まだまだ油断することはできん」
 久坂が険しい表情をしながら言う。
「此度の条約で開かれた港の一つである横浜には異人共の屋敷が林立し、異人共もまるで自分の国であるかのように我が物顔で歩き回っとるとよく耳にする。こねぇなことになっとるんは幕府の悪政が未だ改まっていない証以外の何物でもない。このままではこの江戸も、いんやこの神州そのものが横浜のようになるのも夢ではないとさえ、わしは危惧しとる」
 久坂は徳利の中の酒を盃につぐとそれを一飲みして、再び語り始めた。
「それに条約が結ばれてからっちゅうもの、異人共が水油や蝋などの日々の暮らしに欠かせん品を買い占めとるせいでそれらの値が不当に高くなり、民の暮らしが脅かれ取るんじゃからまっこと腹立たしいことこの上ない。今こそ国是を立てた上で、わしら長州が世を正すべく動かねばいけん」
 久坂は自身の話を終えるとまた徳利の酒を盃に注ぎ始める。
「今日はよう飲むな、久坂」
 晋作が意外なこともあるもんだと言わんばかりの口調で言う。
「ここのところ面白うないことが立て続けにおきててな、酒を飲まんとやってられんのじゃ」
 久坂は愚痴をこぼしながらぐいっと盃の酒を飲むと、何かを思い出したらしく、
「そうじゃ、桂さんが近頃水戸の西丸帯刀殿にお会いするつもりじゃっちゅう話はもうしてあったか?」
 と唐突に尋ねてきた。
「いんや、まだ聞いとらんが、桂さんは水戸の者と会うて一体何するつもりなのじゃ?」
 晋作が久坂に尋ね返す。
「わしもまだ詳しいことは知らんのじゃが、どうやら水戸と長州が盟約を結ぶための話し合いをするつもりじゃそうな。水戸は元々尊皇攘夷の考えが根付いとる所であるが、桜田門で井伊を討ち取ってからは益々その勢いが盛んになっとるそうじゃ。もともと斎藤道場の塾頭を務めていた桂さんは水戸を始め、他藩の者たちとの繋がりが深い。恐らく幕政を正すためにその繋がりを生かして水戸と手を組み、国事に当たろうとしているんではないじゃろうか」
 久坂が思慮深げに晋作の問いに答えた。
「流石は桂さん、藩から有備館用掛を命ぜられただけのことはあるのう。わしらとは大違いじゃ」
 晋作が自嘲気味に言う。
「ああ、全くその通りじゃ」
 久坂は同調すると続けて、
「わしも桂さんを見習うて何か行動せねばいけんのう。酒を飲んで大言壮語するばかりでまだ何も為せてはおらんからな。口ばかり達者ではただの法螺吹き野郎じゃ。わしも何か、わしも……」
 と焦りの表情を浮かべながら一人呟き、晋作はそれを何とも言えない顔でただじっと黙って聞いていた。
 
 
 
 
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