第115話 桜田門外の変

文字数 2,701文字

 話は遡り、安政七(一八六〇)年三月三日、江戸芝の愛宕社。
 雪が降りしきる中、水戸を出奔した十七人の浪士達と薩摩を出奔した一人の浪士が、井伊大老の暗殺を実行に移すべく、密かに集合していた。
 朝六つ(午前六時)頃の江戸の空はまだ夜が明けたばかりのためか、漆黒の闇に覆われており、手に持つ提灯がなければ、相手の顔を確認することもできないような有様だった。
 雨合羽姿の浪士達はみな白い息を吐きながら険しい表情をして、ある一人の男に視線を向けている。
「我等はこれより、大奸物の井伊掃部頭を誅殺しに参る!」
 浪士達の頭領である関鉄之介が高らかに宣言した。それを聞いた他の浪士達の表情はより一層険しくなる。
「井伊掃部頭は恐れ多くも、天子様の勅許がないままメリケンとの条約に踏み切り、大殿様をはじめとした有志ある諸侯を不当に処罰せしめ、我が藩の家老であった安島様や京都留守居役の鵜飼様、奥右筆の茅根殿の命を奪った稀代の大悪党である! 今掃部頭はそれだけに飽き足らず、姦計を弄して朝廷を謀り、我が藩に下った密勅を強奪しようと目論んでいる。卑劣な掃部守の暴挙を止めるには、奴を誅殺するより他においてない!」
 冷たい風に煽られながら掃部頭の罪をあげつらう鉄之介の声には、並々ならぬ覚悟のほどが秘められている。
「掃部頭を討ち取れるか否かで、わが水戸藩の、日本国の行く末が決まる! 我等十八人の肩に全てがかかっておるのだ! この義挙が行われた暁には、同朋である薩摩が兵を率いて必ず上京を果たす! 薩摩の兵力を以って天子様に幕政改革の勅を出させ、幕府に蔓延る奸臣共を一網打尽にし、異人共と結んだ条約を破棄する! ここまで成し遂げて初めて、我等の思い描く尊王攘夷が達成される!」
 鉄之介が浪士達に対して盛んに激を飛ばしている。浪士達はただじっと黙ったまま、その激を聴いていた。
「もう後には引けぬ! 失敗は絶対に許されぬ! 必ず掃部頭を桜田門外で討ち取るぞ!」
 鉄之介が力強く浪士達に語り掛けると、浪士達は「おお!」と声を上げ、覚悟を固めたのだった。 





 その頃、外桜田にあった彦根藩邸において、井伊掃部頭が屋敷内に投げ込まれた無名の封書を開いて一人読んでいた。
「長岡勢江戸に潜伏し、よからぬ企みを企て候。掃部頭様のご身辺、充分に固められたく存じ奉り候」
 その封書には暗殺に用心するよう井伊掃部頭に警告すると共に、水戸浪士達の動向についても記されている。
 掃部頭は封書の墨の色をじっと眺めると無言で机の上に置き、
「儂は大老として幕府を、日本国を守るために多くの者達の命を奪った。その儂がどうして今更我が身を、命を惜しむことなどできようか……。もう後戻りはできぬ。命が尽きるその時まで、儂は歩みを止める訳にはゆかぬのだ」
 と苦渋に満ちた顔で呟くように言って、屋敷の玄関先にある駕籠へと向かった。





 朝五つ半(午前九時)ごろ、供まわりの侍二十六名の他、足軽や草履取り、駕籠かきなどを加えた総勢六十名ほどの掃部頭の一行が、外桜田の藩邸を出て江戸城へと向かった。
 三月三日は女の節句であり、在府の大名は祝賀のために総登城する決まりになっていた関係上、桜田門外には続々と登城する大名達の一行と、その大名達を一目見物しようと集まってきた町人達でごったがえしている。
 掃部頭の一行はこの人だかりの中、登城すべく歩みを進め、先供が桜田門外にある杵築藩主松平河内守の屋敷の前に到達すると、辻番所の脇に隠れていた一人の雨合羽姿の侍が、訴状を手に一行の目の前に躍り出てきた。
「奉る! 奉る!」
 訴状を片手に、雨合羽姿の侍が掃部頭の一行の前に立ちはだかると、供頭の日下部三郎右衛門と供目付の沢村軍六が、訝し気な表情をしながらその侍に近づき、
「何じゃ。貴様は一体何者ぞ?」
 と声をかけた。
 その侍は日下部達の質問に答えることなく、いきなり被っていた傘を投げ捨てて抜刀し、日下部に斬りかかった。
 日下部は雨合羽姿の侍に応戦すべく、自身の刀を抜刀しようとするも、雪水の侵入を防ぐ目的で、刀の鍔まで鍔袋をはめていたために抜刀できず、そのまま額を斬られて血を吹きながら倒れ伏した。
「おのれ、この狼藉者が!」
 沢村もその侍に対抗すべく抜刀を試みたが、日下部同様刀の鍔まで鍔袋をはめこんでいたため抜刀できず、斬り倒される。
 日下部達がその侍に始末されたのとほぼ同時くらいに、群衆の中から一人の侍が姿を現して、リボルバー銃で掃部頭が乗る駕籠を狙撃した。
「くっ…水戸の浪士どもめ……」
 掃部頭の顔は銃で撃たれた痛みでゆがんでいる。侍が撃った銃弾は太ももから腰へと貫通していたため、血がとめどなくあふれ出てきていた。
 この銃声を合図に、見物客に紛れていた水戸の浪士達が一斉に井伊家の供侍達に襲い掛かる。
 水戸の浪士達を迎撃すべく、井伊家の供侍達は刀を抜こうとするも、先の日下部達と同じように鍔袋を刀の鍔まではめこんでいたため刀が抜けず、次々と浪士達の凶刃に倒れていった。
「愚か者どもが。この儂が死んで喜ぶのは外夷だけじゃというのが分からんか……」
 駕籠の中で掃部頭が一人毒づく。掃部頭の駕籠を運んでいた駕籠かきや草履取り、その他の供侍達は、みな一目散に逃げてしまったため、掃部頭の駕籠を守る者は、何とか抜刀することに成功した供目付の河西忠左衛門と永田太郎兵衛だけだった。
「殿をお守りするのだ! 絶対に浪士共に殺めさせてはならぬ!」
 複数人の浪士を相手に刀を振り回しながら河西が叫ぶ。永田も浪士達から掃部頭を守るべく二刀流で奮戦している。
 河西達が戦っている隙をつき、浪士の一人であった稲田重蔵が駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜いた。
 稲田に続き、水戸浪士の広岡子之次郎や海後磋磯之介も、掃部頭の駕籠に刀を突き刺すと、
「殿に何をするか!」
 と河西が激高して稲田を斬り倒すも、自身も稲田や他の浪士達に刀で斬りつけられたため、地べたの雪を鮮血に染めながら、その場に倒れた。
 もう一人の供侍であった永田も、体の至る所を浪士達に斬られて力尽き、それを確認した薩摩浪士の有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放って、井伊掃部頭を外に引きずり出した。
「はあ……はあ……」
 リボルバー銃で撃たれた傷に加えて、浪士達に腹や胸を刺されたため、掃部頭はすでに虫の息だ。
「きぃやぁー」
 次左衛門が雄叫びを上げながら、掃部頭の首を刎ねた。



 白昼に幕府の大老が水戸浪士達に暗殺されたこの事件は、後に桜田門外の変と呼ばれ、幕府の権威が大きく失墜し、尊王攘夷の志士達が活発化する切っ掛けとなる。
 
 

 
 
 

 



 
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