第126話 晋作と象山

文字数 1,980文字

 五郎兵衛に勝てぬまま壬生を発った晋作は足利、玉村を経て上野国に入り、そこから碓氷峠を経て信濃の上田城下に行くと、そこで藩士達を相手に連日剣術試合を行った。
 四日間上田に滞在した晋作はそのまま真田家が支配する松代の城下町へと赴き、寅次郎のかつての師であり、寅次郎の密航未遂に連座して今なお松代藩の主家老望月主水貫恕の下屋敷に蟄居中の佐久間象山を夜分に訪ねた。
「お前が寅次郎の弟子の高杉晋作じゃな?」
 下屋敷内にある建物、高義亭の二階に晋作を呼びつけた象山がぶっきらぼうに尋ねる。
「如何にもわしが高杉晋作であります。象山先生のことは亡き寅次郎先生から常々お伺いしとりましたけぇ、こねぇにしてお会いできて光栄の極みであります」
 晋作が恭しく象山に挨拶をした。
「儂は別にお前などに会うても何とも思わん。何とも思わんが寅次郎が生前儂に寄越した文でお前のことをえらく褒めておったのでな、此度儂の親切心で面会を許した次第じゃ」
 象山が横柄な物言いをすると、晋作はむっとしながらも、
「左様でありますか。象山先生の格別のお心遣い、感謝致しまする」
 と象山に礼を述べた。
「寅次郎が死んでもう一年になるが、あ奴と過ごした日々のことは昨日のことのように覚えておる。あ奴は儂が認めた数少ない奇才の持ち主であった。その寅次郎があのような最期を迎えたことは真に遺憾なことと言うほかあるまい」
 象山が悲し気な表情を浮かべながら亡き弟子のことを語り始める。
「寅次郎を殺めた幕府の役人共は馬鹿の集団である。優れた西洋の芸術と文物を我が物とするために命がけでぺルリの黒船に密航しようとする壮士は、天下広しと言えども寅次郎ぐらいしかおらんかったのに。寅次郎の死は日ノ本の多大なる損失じゃ」
 象山が頭に手をあて寅次郎を失ったことを嘆き悲しむと、晋作も象山に同調して、
「象山先生の仰られとる通りであります。寅次郎先生を殺した幕府は憎き敵、できることならわしの手で先生の仇を討ちたいと思うとるぐらいであります」
 と悔し涙を流しながら幕府への恨み言を口にした。
「寅次郎は大層弟子に慕われておるのう。やはり儂の人を見る目に狂いはなかった」
 象山がうれしそうにうんうん頷く。
「あの世におる寅次郎もこれで少しは浮かばれるじゃろうな。ところで寅次郎の弟子よ、お主はコロンビユスやコペルニキユス、ネウトンについて知っておるか?」
 象山が唐突に尋ねてきた。
「えっ? コロンビユス? コぺン二キユ……」
「コペル二キユスじゃ! 全く寅次郎の弟子にくせにこんな事も知らぬとは! ええか、この三人は西洋の発達した様々な芸術の礎を作った言わば西洋芸術の草分けをした者たちなのじゃ。コロンビユスが究理の力を以って新世界を見出し、コペルニキユスが地動の説を発明し、ネウトンが重力引力の実理を究め知ったその時から、西洋の芸術は我が皇国のそれを遥かに凌駕しておる。西洋の蒸気船もテレガラフも彼らの発明があってこそ作られたものじゃ。これらの発明を何一つ知らずして如何にして西洋の国々と渡り合うというのじゃ! 今巷で尊皇攘夷と声高々に唱えては異人を刀で斬りつけ、得意になっておる馬鹿共がおるみたいじゃが、あんなものはただこの皇国を破滅に追いやりかねない愚行でしかない」
 象山は西洋の芸術について晋作に語ると、自身の脇に置いてある木の箱を晋作の目の前に持ってきて、
「これを見ろ。これは留影鏡(写真機)といってな、己の姿をそっくりそのまま映して未来永劫留めておける西洋の発明品じゃ。横浜で四五両もの大金をはたいて買うた品で、今儂自身でこの留影鏡を作っておる最中であるがなかなかに難しくてな、この大天才である儂さえも苦労させられとる。全く西洋の芸術の奥深さには舌を巻くばかりじゃ」
 と留影機のことを晋作に説明すると続けて、
「今の儂は罪を得て蟄居中の身じゃが、このままこの松代の地に埋もれて死ぬつもりは毛頭ない。井伊掃部頭が水戸の浪士に討たれ天下が益々混迷を極めておる以上、この田舎の小藩もいつまでも他人事のようにはしておれぬ。そのうち藩の上役共が儂に泣きついてこの屋敷から儂を解き放つじゃろう。その時こそこの大天才である儂がこの皇国を西洋の国々にも負けぬ立派な強国に作りかえて見せようぞ」
 と自身がこの国を変えることを宣言した。
「流石は寅次郎先生が師と仰いだほどの御方。本日お会いできて誠によう御座いました」
 晋作は象山の語る西洋の技芸のことこそよく理解できなかったが、象山の見識の深さを知れて満足している。
「うむ、では寅次郎の弟子よ。お前もお前の師である寅次郎を見習って西洋の技芸や知識の事をよく学ぶのじゃな。異人達に立ち向かうのに必要なのは刀ではなく西洋の芸術と知識じゃ。それをゆめゆめ忘れるでないぞ!」
 象山は晋作に強い口調で忠告をした。
 

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