第31話 疥癬にかかる寅次郎

文字数 1,865文字

 横浜村を出てから五日後の三月十八日、寅次郎達はついに下田に到着し岡村屋という宿に泊まることとなった。 
 だが寅次郎は樹木が生い茂る険しい山道の下田街道を旅している最中に、ヒゼンダニに刺され疥癬(かいせん)を患ってしまったため、岡村屋に金子を一人残して蓮台寺温泉にある村人限定の共同湯へと忍び込み、そこで養生していた。
「せっかく黒船を追って下田まで辿り着いたのに、まさか病にかかり養生する羽目になろうとは……」 
 寅次郎が温泉に浸かりながら独り言をつぶやく。このとき、寅次郎のお腹や腕の所々に赤い出来物が生じていた。
「このままではペルリが下田を離れてしまう……一刻も早く治さねばいけんな」 
 寅次郎の心には焦りが生じ始めている。
「誰じゃ? このような夜更けに湯に浸かっておるのは?」 
 初老の男が共同湯の入り口から寅次郎に向かって呼びかけると、寅次郎は驚いて後ろを振り向き声の主を確かめてようとした。
「何も返事をせぬのならこちらから参るぞ!」 
 初老の男が共同湯の中へと入ってくる。
「お主、この辺りでは見ない顔だな! 一体何者なのじゃ?」 
 共同湯で寅次郎を発見した初老の男が怪訝そうな顔で尋ねる。男はこの見知らぬ旅人を警戒していた。
「私は旅の者です。訳あってこの下田に参りましたが皮膚病にかかってしまいましたのでここで養生しております」 
 寅次郎は湯に浸かりながら事情を説明すると、赤い出来物が生じた腕を初老の男に見せる。
「なるほど、事情は分かった。だがここは村人以外の者の立ち入りを禁止している場所であることを知っておるのか?」 
 初老の男が再び寅次郎に尋ねた。事情を知って少し警戒心が解けたようだった。
「存じております。村の者からここの湯のことを聞きましたので。ですが私は一刻も早くこの皮膚の病を治さなければならないのです。その訳を申すことはできませぬがどうか見逃しては頂けないでしょうか?」 
 寅次郎は初老の男に懇願する。
「残念だがそれはできぬ。だが医者として病にかかっている者を放置しておくこともできぬ故、お主を儂の家に連れていって治療をしようと思う」 
 初老の男はこの見知らぬ旅人を治療することに決心した。
「かたじけない! じゃが何故見ず知らずの私に対してそのように親切にしてくれるのでしょうか?」 
 寅次郎は初老の男の親切心に感謝しつつも、その真意がどこにあるのか分からなかったので、訝しげにしている。 
「立ち入り禁止の湯と知っていて入るくらいだから余程重大な訳があるのじゃろ。儂でよければ力になろう。申し遅れたが儂の名は村山行馬郎(むらやまぎょうまろ)と申す。お主の名は何と申す?」
「私は瓜中万二でございます。此度は助けて頂き誠にありがとうございます」 
 寅次郎は偽名を名乗った。寅次郎達は下田に入る直前、身元がばれないようにするために地元民にはそれぞれ偽名を使う事を決めていたのであった。
「瓜中万二か。では夜も大分更けた故、早う儂の家へ参るぞ。この蓮台寺温泉からそう離れてはおらぬからすぐに着くぞ」 
 行馬郎が早く湯から出るよう催促すると、寅次郎は慌てて湯から出て体を拭き始めた。




 四半刻後、寅次郎は行馬郎に連れられて彼の家に到着した。彼の家の風呂は共同湯とおなじ効能の温泉であったため、寅次郎はその風呂に浸かって皮膚病を治すこととなった。
「どうじゃった? 儂の家の風呂は?」
 行馬郎の家に到着後、すぐに風呂に入ってすっかりいい気分になった寅次郎に対し、行馬郎が尋ねた。
「ええ湯加減でした。お蔭で身も心も生き返るような気分です」 
 行馬郎にあてがわれた部屋の一室で寅次郎が気持ちよさそうに言った。共同湯に浸かった後に行馬郎の湯にも浸かったお蔭ですっかり長旅の疲れもとれたようだった。
「それはよかった。これは皮膚病に効き目がある塗り薬じゃ。風呂に浸かった後にこの薬を塗って養生すればすぐに良くなるはずじゃ。そんでその薬を塗り終わった暁には夕餉を馳走するぞ」 
 寅次郎の言葉を聞いて安心した行馬郎は、塗り薬が入った筒を寅次郎に手渡した。
「風呂や薬だけでなく食事の面倒まで見てくれるとは本当にかたじけない! このご恩は一生忘れませぬ」 
 寅次郎は感謝の気持ちで一杯になっている。
「最初に言ったではないか。医者として病にかかっている者は放っておけぬと。儂にとってこれは当然の務めなのだからいちいちお礼を言わずともよい」 
 行馬郎は何を今更と言わんばかりの様子で言うと、
「お主も早う病を治してお主自身の務めを全うしなされ」 
 と言い残して部屋をあとにした。

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