第62話 学問に励む晋作

文字数 2,474文字

 一方、明倫館の講堂では、晋作が講義と講義の合間の時間をも割いて、『書経』を熱心に読み込んでいた。
 村塾におけるナポレオンの討論の一件以来、晋作は武術以上に学問の修得に心血を注ぐようになり、今まで馬鹿にしていた四書五経の書物はもちろん、『海国図志』や『海防問答』などの海防関連の書物、会沢正志斎の書いた『新論』などの最新の書物などにも手を出していた。
「晋作はここ最近まるで人が変わったように、書物を読み漁っちょるのう」
 『書経』を読んでいる晋作の姿を見た作間門十郎は戸惑いを隠せない様子だ。
「門十郎のゆう通りじゃ。近いうちに雹でも降るかもしれんぞ」
 門十郎の側にいた唐沢栄三郎も珍しいものを見るような目で晋作を見ている。
「全くじゃ。一体どねーな風の吹き回しなんじゃろうかのう。今まで剣術しか頭になかったのに」 
 門十郎が頭を掻きながら呟く。
「そういえば、栄三郎は例の松下村塾の事について何か知っちょるか?」 
 ふいに村塾のことを思い出した門十郎が尋ねる。
「ああ、知っちょるよ。黒船に密航しようと目論んだ吉田寅次郎が、松本村で開いちょる塾のことじゃろう。聞いた話じゃと、あそこに通っちょる塾生のほとんどが松本村に住む足軽や中間の子みたいじゃが、この明倫館におる子弟も何人か村塾に通っちょるそうじゃのう」 
 栄三郎は村塾に関する自身のあやふやな記憶を思い出しながら言った。
「おお! 栄三郎もやはり知っちょったか! 寅次郎の松下村塾はどうやら学問を学ぼうとする志がありさえすれば、身分の別を問わず誰でも入れる塾みたいなんじゃ。それに村塾の講義は、この明倫館のように、四書五経の内容を一字一句覚えさせるようなつまらんものでは全くないらしい。おもしろそうだから一度行ってみたいと思っちょるのじゃが、おめぇも一緒に来んか?」 
 門十郎が興味津々に栄三郎を誘う。
「済まんが、それは無理じゃ」 
 栄三郎が残念そうな表情を浮かべながら言った。
「何故じゃ? 村塾にも寅次郎にもあまり関心が湧かんのか?」 
 門十郎が不思議そうな顔で栄三郎を見る。
「別にそねーな訳ではないっちゃ。わしの父上が寅次郎のことを目の敵にしちょるんじゃ。父上は寅次郎のことを出奔しただけに飽き足らず、国禁を破って黒船に密航しようとした稀代の大罪人じゃ、こねーな奴と関わり合いになったら家名に傷が付くから関わってはいけんゆうて憚らんのじゃ。もし村塾に入塾して寅次郎から教えを受けようものなら、わしは家を勘当されてしまうじゃろう」 
 栄三郎は訳を説明すると続けて、
「それにわしの父上だけではなく、この明倫館に通っちょる子弟の親のほとんどが、わしの父上と同じような理由で寅次郎と関わり合いになることを固く禁じちょる。もちろん晋作の御父上や爺様も例外ではない。寅次郎のことを認めちょる親は、せいぜいお前の御父上ぐらいじゃろう」 
 と言って門十郎に勧誘を諦めさせようとした。
「本当にそうなんか? じゃとすると、この明倫館にも寅次郎の村塾に通っちょるものが何人かおるちゅうてたのは、一体どねーなこと何じゃ?」 
 門十郎は訝しげな様子で尋ねる。
「その者らの親も決して寅次郎のことなぞは認めておらんけぇ、恐らく親の目を盗んでこっそりと通っちょるに違いない。もし村塾に通っちょることが明るみに出れば、ただでは済まんからのう」
 栄三郎は次の講義がそろそろ始まるからという理由で、そそくさと自分の席に戻っていった。





 明倫館の講義が終わったこの日の夜、松下村塾に行くための支度を整えた晋作が、屋敷内にある自身の部屋を出て、入り口である土間におり立った。 
 刀と脇差を腰に差し、懐に『海国図志』を入れた晋作が土間をでて、屋敷の門から外に出ようとすると、七〇位の老人に後ろから声をかけられた。
「こねー夜も更け冷え込んじょるちゅうのに、今日も散歩に行くんか? 晋作」 
 祖父の又兵衛が孫に尋ねる。
「はい。武士たるもの、冬の寒さの中にあっても、陽気な春の温かさにおる時と同じように動けるよう、常日頃から鍛錬せねばいけんと思っちょりますので」 
 晋作は取ってつけたような返答をした。
「そうか、それは感心な事じゃ。儂はてっきし村塾の吉田寅次郎の元へゆくものとばかり思っちょったが、どうやらそれは勘違いだったようじゃのう」
 又兵衛は笑いながら言った。晋作は寅次郎の名前を聞いて少し動揺の色を見せたが、すぐに平静を取り戻して
「爺様は何故わしが寅次郎の元へゆくものじゃと思うたので御座いまするか?」
 と逆に尋ね返す。
「お前が学問に真面目に取り組むようになったんと、夜が更けてから散歩に出るようになったんは丁度同じころじゃったんでな、もしやと思ってちと聞いてみたまでじゃ」 
 又兵衛は冗談ぽく返答した。
「それは考え過ぎでございますよ、爺様。このわしが吉田寅次郎などと関わり合いになるわけがないでしょう。わしが学問に力を入れるようになったんは、ひとえに真の侍になるため、ただそれだけであります」 
 晋作が作り笑いを浮かべながら言う。
「左様であったか、では早う散歩へ行きんさい。今は冬故、あまり夜遅うなりすぎると風邪を引くやもしれんからの」 
 又兵衛はそのまま屋敷の中へと戻っていった。





 又兵衛が屋敷の土間にたどり着くと義理の娘である道が目の前に姿を現した。
「晋作は散歩でしょうか? 義父上」
 道が又兵衛に尋ねる。
「ああ、散歩へ出かけたぞ。松本村にある松下村塾へ向けての」
 又兵衛は先程までとは違い険しい表情だ。
「このままでええんですか? 義父上も旦那様も晋作が吉田寅次郎に近づくことを、何としてでも阻みたかったのではないんですか?」
 道が心配そうに尋ねる。
「晋作が寅次郎と関わり合いになるんは確かに由々しきことじゃが、その影響で学問を熱心に学び始めたんもまた事実。しばらくは何も知らぬふりをして、様子を見ようと思っちょる。じゃが万が一のことを考えて、江戸の小忠太には一応文で知らせておいた方がええじゃろう」
 又兵衛は道を諭すようにして言った。

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