第77話 雲浜と武人

文字数 1,202文字

 直弼達が京の手入れを行うことを決意してから二十日余り後、梅田雲浜は自身の屋敷内でいつもの如く書を嗜んでいた。
 雲浜は書や和歌、詩、文などの余技を得意とし、暇を見つけてはこれらの技術を磨いていた。
 彼が丹精込めて「志」という一字を書き終えたとき、弟子の一人である松崎武人改め赤禰武人がひどく焦った表情で、雲浜の居る座敷へと飛び込んできた。
「一大事ですっ、先生! 奉行所の役人達が先生を捕えようと大挙して押しかけてきました!」
 赤禰は叫び声に近い感じの声を発しながら雲浜に危機を知らせた。
「……どうやら幕府に密勅の件で嗅ぎ付けられたようじゃな。いつかこのような日がこようとは思っておったが、まさかこれほど早いとは……」
 雲浜は自身がいつか幕府に捕まる日がくるであろうことを覚悟していたようであったが、余りにも幕府の捕り方が来るのが早かったので、驚きを隠さずにはいられない。
「如何なさるおつもりですか、先生? 屋敷の周辺はすでに役人達に囲まれちょるけぇ、逃げおおすのは難しいかと存じます! かくなる上は奴らと壮絶な斬りあいをして、尊王攘夷の志に殉ずるのが……」
「血気にはやるでない。武人、お主はまだ若く才気に溢れておるのだから、このようなつまらぬ場所で命を粗末にしてはならぬ」
 焦燥に駆られるあまり死に急ごうとする赤禰を雲浜が厳しく諫める。
「ですが、先生……」
 雲浜の言葉に納得がいかない赤禰は反論を試みようとするも、途中で雲浜に遮られ、
「尊王攘夷の志を立てたときに、すでにわが命は亡きものと心得ておる。それに奉行所の役人共が来ずとも、梁川殿のようにコロリにかかって死ぬことも充分ありうる。じゃから儂のことなど気にせず、己の身を守ることだけに専念してくれ。お主はまだ死ぬには早すぎる」
 とまたも諫められた。
「……分かりました。しかし先程も申し上げました通り、屋敷は既に囲まれちょるけぇ、逃げる事は到底叶いませぬ。このままでは私も先生も役人共に捕らえられて、しかる後にきっと死罪と相成りましょう。これでは結局私も死ぬことになりませぬか?」
 冷静さを取り戻した赤禰が雲浜に尋ねる。
「その心配はない。幕府に目をつけられておるのは、あくまでも朝廷と繋がりが深い儂や梁川殿のような者だけじゃ。お主は捕らえられたとしてもすぐに解放されるじゃろう。だから余計なことはせず大人しくしておればそれでよいのじゃ」
 雲浜は赤禰に微笑むと、自ら役人達に捕縛されるべく玄関口へと赴いていった。




 こうして雲浜は赤禰と供に町奉行所の役人達に捕らえられ、伏見奉行所の牢獄にその身柄を移されることとなった。
 またこの雲浜の捕縛を皮切りに、水戸藩京都留守居役及び助役の鵜飼吉左衛門・幸吉親子、頼三樹三郎、池内大学などの志士達、鷹司輔煕や近衛忠煕、青蓮院宮といった公卿や皇族が次々と捕らえられたり、あるいは失脚を余儀なくされることになるのである。



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