其の拾六  相原 絵里 (Ⅳ)

文字数 2,248文字

「それで、どうなったんですか?」
「詳しいことは何も言えないって。でも、名刺を渡したら、『あれ、杉村社長はどうされたんですか?』って言われて、脳出血で倒れて寝たきりになったから、甥の俺が後を継いだって言ったら、『そうだったんですか』って思い切り驚いてた」
「で、その人は何者?」
「葉室さんって人。M&Mの社員みたいやけど、名刺もくれなかったし、よくはわかんない。南部の土地のことを知りたいんだったら、余計に立場は明かせないって。なんか大きな話みたいで、もうすぐ、全国ニュースになるからみんなわかるって」

このバカだけは本当にどうしようもない。せっかくボイスレコーダーを持たせたのに、ポケットに入れたまま、何度も、バカみたいに大きな咳払いをしたり、ゴソゴソと動くので、服の擦れる音とガヤガヤした雰囲気だけで、音声は何も入っていない。ニュースになってからでは何の意味もないことさえ、わかっていない。
自分から名詞を出して、「何か、不動産関係の大きなお話しをされているのでしょうか」と、その男に話しかけたらしい。それも「絵里さんのために勇気を振り絞って…」と恩着せがましい。こちらが正直に話せば、相手も腹を割って何でも答えてくれるとでも思ったのだろうか。中学生以下の思考回路。でも、それに頼らざるを得なかった自分が情けない。どうして、その場でわたしを呼ばなかったんだと拳を握ったが、こっちにも良いアイデアがあったわけではないし。
「めっちゃエエ人やったで。『若いのに社長ってすごいですねぇ』って、俺の話いっぱい聞いてくれた。叔父さんのことをよう知ってるって。こっちが世話したことあるとか、そんな話やった。『京都杉村工務店さんは素晴らしい会社です』って褒めてくれて、ホステスもママもわいわい来て、大騒ぎして、あんなに楽しかったのは初めてやなぁ。あっ、ええワインあけたけど、昨日の飲み代、あいつが払ってくれたんかなぁ。『不動産や建築のことでお困りであれば、何なりとご相談ください』『ウインウインの関係でいきましょう』って、営業はちゃんとしておいた」
その悦に入っただらしない顔を見ると、蹴りたくたくなってくる。「馬の耳に念仏」と「豚に真珠」を掛け合わせて二乗したような話。このバカは調子に乗ってどんな話をしたんだろう。リアルの不動産経営とかなんとかいったんだろう。相手は何と思っただろう。それを聞くのも怖い。
「で、これから俺はどうしたらいいの?」
「そうですね。まあ、しばらく様子を見ましょう」
ご褒美をもらえると思ったのか、すり寄ってきたが、「今日は体調が悪いので…」とそっけなく部屋を後にした。犬飼からは、『どうなった』『進展はないのか』と何度も悲壮な催促がきているが、中に入っている人と交渉中だとでも言っておくしかない。

それから三日後、暗いだけの営業会議にうんざりしている中、一本の電話が入る。あのバカは、よほど楽しかったようで、「葉室とはダチやし、俺からもっとアプローチしてみる」と、あれからも毎日、祇園通いが続いている。そのため夕方にしか会社に出てこない。
「社長にお電話が入っているのですが」
「誰から?」
「エム何とか投資顧問と言われてますが、たぶん資産運用の営業やと思います。こちらで断りましょうか?」
「社長室に回して。私が対応するから」
社員に会議室で待つように言うと社長室に向かう。まさかと思うが、そうではないとも言い切れない。電話を取る前に、一度大きく深呼吸をする。
「はい、お電話かわりました」
「M&M投資顧問の葉室と申しますが、田中社長はおいでになりますか?」
背筋がぞっとして、心臓がドンドンと大きく鳴っているのがわかる。
気持ちを落ち着けるために、受話器を外して一つ大きく息を飲む。

「申し訳ありませんが。社長は、ただいま外出しておりまして」
「そうですか。それは残念です。少しご相談したいことがあったんですが、ではまた、こちらから、折を見てご連絡させていただきます。一応、電話があったことだけ社長さまにお伝えください」
いきなり切られそうになったので、慌てて言葉を繋ぐ。
「わたくし、共同経営者の相原と申します。仕事のお話しでしたら、私が変わってお伺いいたしますが…」
「共同経営者と言われますと?」
「ご存じかと思いますが、前社長が一昨年に倒れまして、それを引き継いだ田中はまだ若く、不動産経営の経験が十分ではありません。そのため、事業が安定するまで重要事項につきましては、わたくしが判断させていただいております」
「杉村社長は、お倒れになったと聞いたんですが、具合はいかがですか」
「ご心配いただき、ありがとうございます。正直いいますと、まだ入院中で、医師の説明ではこの先も意識が戻ることはないとのことで、経営体制の刷新が必要となり、お手伝いさせていただいている次第です」
「そうでしたか。実は、先代の杉村社長には、個人的に大変お世話になったことがありまして、できればお見舞いに伺って、あらためてお礼をと思ったんですけど…」
なるほど、なるほどと、少し考えるような間のあとで、男は少し咳きこんだ。
「では、今の社長さんより、あなたにお話しを通した方がよいかもしれませんね」
詳細は一度お目にかかってということで、時間と場所を約束して電話は切られた。あいつは、単なるバカではなく本当に引きが強いんだろうか。
いや、バカがいない時に電話がかかってきたのだから、引きが強いのは私だ。
そう思うと、笑いがこみあげてきた。
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