其の四  北條 希 (Ⅰ)

文字数 2,114文字

「う~ん」
あまりの気持ちよさに、思わず伸びをすると、鼻の穴が上を向いてちょっとはしたない声が出てしまう。
京の町は、桜の季節が一段落したところ。
【倶楽部 華夕】は、毎週、日曜・月曜・火曜と三日お休み。
平日の午後は繁華街もそれほどの混雑ではなく、日向にでると、柔らかな陽射しがぽかぽか心地いい。整備されて広くなった鴨川の遊歩道を歩いていると、生まれたばかりの鴨の雛がお母さんに遅れないよう、川の流れに逆らうように懸命に足をかいている。手のひらをお陽さまに向けて背伸びすると、新しい春の息吹が胸いっぱいにひろがる。

これまで、人混みの中では目を伏せて、下を向いた歩いた。最初の頃は髪をはさみで短く切り、お店にいるとき以外は帽子とマスクが手放せなかった。父の冤罪が晴れ、気負いが無くなると、見慣れているはずの街の風景までも、違って見えるようになった。
円さまにそうお話しすると、「それは、お父様や他人様ではなく、希が変ったからやと思うよ」と、日本語でも英語でもない(私にはそこまでしかわからない)、難しいことがぎっしり書かれた本(たぶん説明されてもわからない)をソファに座って読みながら、いつもの笑顔で少しそっけなく言われた。
円さまと一緒に、華道、茶道、香道、書道、日本舞踊、体術、棒術について、福さまからご指導を受けている。福さまは体術、棒術、日本舞踊のときは怖いけれど、お花やお茶の時は「よしよし」ととてもやさしい。たまに、夕さまと怜ちゃんが一緒のときもある。怜ちゃんはまだ四歳なのに、踊りだけじゃなくお花もお茶も堂々としていて、中学生の頃に(ちょっとだけだけど)習っていたなんて、とても恥ずかしくて言えない。

昔は、与えられたお花を縦にしたり横にしたり剣山に刺していくだけで、型とか良し悪しとかを言われても「そんなもんか」くらいで、よくわからなかった。でも、白川の家で福さまに教えていただいていると、菖蒲が少し上を向くだけで、梅木の高さが数センチかわるだけで、「あぁ~」と思わず感嘆の声がでるくらい世界が変わる。
それは茶、書、香も、恐らく体術や棒術も同じ。
最初のころは、やけのやんぱち、ひっしのパッチで、右も左も上も下も、前後不覚のまま突っ込んでいくだけだったけれど、最近は福さまのお姿が少し長く見えるようなってきた。あの細い小さなお体のどこにそのような力があるのか、投げられ飛ばされ、尻餅をついて、コウ様に笑われながらマッサージされるのは変わらないのだけれど。
風のそよぎ、草木の芽生え、鳥のさえずり一つにも、喜びや憂い、時の移ろいを感じる。それは、福さまが言われる「我が身が万物と正対している感覚を養う」の入り口かもしれない。きっとそれが生きているということ。まだ、ここにきて四カ月に満たないけれど、一〇年、二〇年、いやそれよりずっとずっと前からここにいるような気になる。
でも、北條希(ほうじょうまれ)だけでなく、佐倉真希(さくらまき)のことも忘れず大切にしていただいている。三月に誕生日を迎えたとき、テーブルの上のケーキには「HAPPY BIRTHDAY MAKI SAKURA」って書いてあった。「まれ」と呼ばれることは、御蔭の人間としての誇りだけれど、「真希」も生まれた時にお父さん、お母さんからもらった大切な名前。「希は泣き虫」と笑われるから泣くまいと思っていたけれど、苺のケーキを口いっぱいに頬張りながら、涙がぽろぽろ流れてきて、やっぱりワンワン泣いた。

今日は、午後から一人でお買いもの。
昨日、お茶の稽古のあと、福さま、円さまと、流行スイーツのガールズトーク?で盛り上がっていたときのこと。福さまが「美味しい最中が食べたいわね」と言われたので、「ここは希にお任せを」と、トンと薄い胸をたたいて出てきた。
御抹茶用の小ぶりのお上品なものではなく、皮と餡が別々になっているものを、寺町通りを下がったところにある仙太郎さんの本店で買う。
そのまま食べても十分に美味しいけれど、私はチョット、ひと工夫。
五㎝ほどもある正方形の皮の片方につぶ餡を、もう片方によく冷えた抹茶アイスを程よく乗せる。それを勢いよくギュっと挟んで、大きな口を開けてガブっと食べる。
パリッとした皮、甘さ控えめの餡、抹茶の苦み。
あぁ…えもいわれぬほどの美味しさ。ゴクリと唾を飲み込んで、想像だけで緩んでしまった頬っぺたを、もうしばらく待つようにナデナデさすってやる。

そのあとで、コウ様お気に入りのシングルモルトが、無くなりかけているのを思い出し、河原町の高島屋に寄る。最近のブームで日本のビンテージのウイスキーは品薄で少々お高め。バーテンの加藤さんにお願いして、お店を通して入れると少し安くなるだろうけど、今はなきプロムナードとコウ様をつなぐ特別なものだから、自分のお金で買うことに決めている。
地下にある食料品のお酒売り場に階段で降りて、ウイスキーの置かれた棚のあたりをうろうろと探していると、こちらを遠慮がちにちらちらと見る視線がついてくる。悪意はななさそうだけれど、お店のひとでもなさそうな。
「誰だろう」と思って振り向くと、見上げた先に一人の男の人と目が合った。
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