其の拾  木村 豊 (Ⅰ)

文字数 2,289文字

ホテルのベッドの上で、大きく息を吐く。
耳障りな寝息を聞いていると、首を締めたくなるような衝動にかられる。思わず両手で耳をふさぐが、それは頭を抱える今の自分の姿そのものだといっていい。
永井が、佐倉先生の紹介で結婚した久恵さんが五年前に亡くなり、その三年後にこの女が後妻として収まった。久恵さんの死因は心筋梗塞だという診断がされたが、頸に索条痕や抵抗傷のある心筋梗塞など聞いたことがない。殺されたのは永井がやった贈収賄をそのまま佐倉市議にかぶせたことに気づいたからだ。永井に弱みを握られているのは、佐倉家の古くからのかかりつけ医師だけでなく、大病院の院長、弁護士、会計士、企業家、政治家、役人、警察など、手帳にあるその数は京都市内だけで百人を下らない。
事情はどうあれ、その悪行すべてに関わってきたことは事実。この朱美も、その一味で、法律上の妻だというだけで夫婦でも何でもない。もともとは、佐倉先生に拾われ事務所で経理を担当していた女だ。
義理の父親に性的虐待を受けたという作り話を泣きながら話し、すり寄ってきた。男女の関係になるとすぐに、その兄だという赤沢がやってきて、責任を取れ、お前の家族や娘も無茶苦茶にしてやると脅された。永井がトラブルを収めてくれたのだが、そのすべてが仕組まれていたのだと気付いた時には、もう後戻りはできなかった。

あれから、もう八年になる。
当時は二九歳で清楚で儚げな雰囲気のある女だったが、隣にいるのは全くの別の人間。毎日、大阪のエステやホストクラブで散財しているため、暗い妖気にも似た色気が取り巻いている。佐倉先生に見る目がなかったと言えばそうだが、この女も、永井という悪魔に取り込まれた不幸な奴だと言っても良いのかもしれない。
永井の異常性は、ますます暴走、拡大している。最近では佐倉先生の愛娘である真希ちゃんを愛人にすると息巻いている。それどころか、自分の欲望を満たすために、赤沢と一緒になって、何の罪もない何人もの人を手にかけている。そう言う私も、赤沢の店で、三人のヤクザに強姦され、泣き叫ぶ女子大生を見ているだけだ。先日も、大学の後輩になるの法学部の女が、逆さ吊りのまま陰部と肛門にウイスキーをどくどくと注ぎ込まれ、急性アルコール中毒で死ぬことがわかっていたが、「お願い…、助けて…」という言葉もそのままに放っておいた。最近では、女の縋るような絶望に怯える眼つきに興奮し、永井からお前もやれとけしかけられるのを待っている。
両親のいない私に父親のように接してくれた佐倉先生を裏切り、今では、その紹介で結婚した妻や二人の可愛い娘の顔もまっすぐに見ることができない人間になった。時折、全身の血液が凍り付くような後悔にさいなまれるが、今更、自分の弱さを悔やんでも仕方ない。

「木村はん、どないしたん、そない真面目な顔して、男前が台無しやんか」
目を覚ました朱美が声をかけてくる。
「べつに」
「ここも縮こまってるやん。もしかして腰ひけてんの? 最近はアウトロー的な影のある大人の格好よさがにじみ出てきたのに、あかんでそんな湿気た顔したら」
下腹部に置いた淫靡な手を上下に動かしながら、細い足を絡めてくる。
「ここまできたら一蓮托生やんか。うちもあんたもばれたら人生終わりや。あんたら確実に死刑やで。この間も気の強い真面目な女子大生、みんなで犯し倒して、ブルーシートで巻いて琵琶湖に沈めてきたんやろ。もう何人目やろな。立派な極悪人やんか」
「うるさい、何も知らんくせに、黙ってろ」
「しゃあないやん。その子はまんが悪かったんやて。私かて、明日、地震とか交通事故に遭うかもしれんし。ゴキブリみたいに這いつくばって、コソコソくそ真面目に生きたからって、誰が褒めてくれるわけでもないんやし。生きてるうちに楽しまんと」
そういうと顔をペロリと舐めた。
「でもさっきの話はホンマ? 永井さんに次の知事の話があるって言うてたやろ。この間まで、俺は市長になるって言うたはったけど、知事さんの方が偉いんとちゃうの?」
そのノーテンキな明るい声に思わず舌打ちがでる。本来であれば、政治家秘書として喜ぶべきことなのだろうが、それが、余計に胃のあたりを重くさせている。
昨日、永井が所属する政党の選挙を管理している筋から、市議を辞任して知事選に立候補する気はあるかという打診が入った。現在の知事はまだ一期目だが、娘の不行跡から次期知事選の出馬を急遽見合わせるのではないかという情報があり、代わる候補者の選定を慌てて行っているらしい。もちろん内々の話であり確定ではないが、選挙日程を考えると、来春の三月には正式に公表する必要がある。関係者の根回しを考えると、年明けの一月末が内部での候補者決定のリミット。
市議から市長への転身は耳にすることがあるが、府知事にというのはあまり前例がない。「手腕を高く評価している」と言われたが、突然の立候補見合わせも含め、何か表沙汰にできない裏の事情があるようだ。通常の選対からの話でもなく、市会の会派内でも誰も知らない。それだけ候補者選びが難航しているということだろう。「党内でも極秘事項で、少しでも漏れるとその段階でこの話はなくなる」と厳しくクギを刺されたが、それだけに確度の高い情報だと言ってよい。
その話を本人に伝えるべきどうか一瞬迷ったが、放置するわけにはいかない。
無邪気に小躍りした永井が、あまりにも醜悪な動物に見えた。市会議員のあと釜は、お前がやれという。これが佐倉先生からのお話であれば、どれほど嬉しかったか…。
思わず、「ふっ」と自らを嘲るような笑いが洟からもれた。

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