其の参  御蔭 髙 (Ⅲ)

文字数 1,933文字

「智(トモ)のひとり娘のことを、覚えておいででしょうか」
帰京から数日経ったある日の朝食、味噌汁を注ぎながらばばが聞いてくる。
「僕が七つのときだったか、智と一緒にここに来たことがあるな。円といったか、目のクリっとしたきれいな可愛い女の子だった。一緒にお風呂に入ったな」
髪をちょんまげに括り、筋の見えるおまたを盛大に踏ん張って、小さな両手を重ねて一生懸命に背中を流してくれた。耳の奥に残る「ヨイショ、ヨイショ」の声が頬を緩ませる。
「コウ様のお部屋の階下に住まわせております」
「ばばは、もう会ったのか?」
「いえ、コウ様がお戻りになってからと」
「智が、国連の仕事でニューヨークに来たときに何度か話をした。北條は自分一代でも良し、あとのことは任せると言っていた。僕も、円が普通の妻、主婦として満足し、幸せに暮らしているのであれば、それでいい」
現在の北條円についての綴方が、左の書見台に置いてある。僕が戻る前から、すべてのあらかたの調べはついており、言いだすタイミングを待っていたのだろう。
「頭の回転は速く、語学や国際情勢にも明るく、また三道(茶道、華道、香道)にも通じ、良き女子かと。ただ、現在結婚しております。優秀なお医者様のようですが、夫婦関係はあまり芳しくないようでございます」
「犬も食わないものに首を突っ込んで、無理に引き離しても仕方あるまい」
そう笑って、注がれたシジミの汁を、小さな音を立てて一口のんだ。
とはいえ、人の行く末を見通す力の強いばばが口にしたことだ。何か思うところがあるのだろうし、もうすでにいくつかの針は垂らしてあるだろう。智が育てた円がそばにいてくれると、心強いことは間違いないが、社会の陰影である御蔭の中に入ることが、幸せなことだとは言えない。
「彼女の中に、御蔭の記憶が残っていなければ無理強いはしない。針(仕掛け)はいつでも外せる緩いものとする」
「承知いたしました」

「マンションへは、いつお引越しされますか?」
「引越すというほどのこともないけどな」
それほど離れていないとは言っても、真如堂や吉田山の縁を回って、京都大学から鴨川をこえて、ゆっくり散歩すると一時間くらいはかかるだろうか。早朝や夜中にじじや陣のあとを泣きながら、ついて走ったことを思い出す。
「生活をされるのに必要なものは、一通り届けてございます」
「昨日、コンシェルジュの方に見せてもらった。いい部屋やね。一人で暮らすには広いからばばも向こうで一緒に住むか? ここには陣や夕に来てもらえば?」
「いえ、まだ、やることもございますれば、わたくしはこちらに…」
そう言うと思っていました。
「ばばの乳が恋しくならない程度に、少しずつあっちに泊まるか…」
「よろしくお願いいたします」

「もう一つは、コウ様のこれからの表の生業のことでございます」
歳を取るとせっかちになるというが、先々のことまであれこれと気になるらしい。世話を焼きたくて仕方ないと言った方が良いだろうか。朝ご飯くらい鳥の声を聞きながらゆっくり食べさせてほしいものだが、僕の帰りを、指を折って心待ちにしていたであろうばばの気持ちに逆らっても仕方ない。
手に取った茶碗と箸を、もう一度下ろす。
「ばばはどう思う」
「以前されておりました女子高の非常勤の美術講師を、お続けになるのはいかがでしょう。葉室氏のお仕事としては、うってつけかと…」
最近は、パソコンやインターネットを使って自宅で仕事をする人も増えており、わざわざ勤めに出なくても奇異に映ることはない。ただ、実社会において、様々な人と交わり、直接、様々な情報、声に接するのは有意義なことだ。十年前、御蔭の家を継ぐ準備のため、京都に二年暮らしていたときは、京都の東山にある女子高で非常勤の美術講師をしていた。その中に一人、気にかかっている生徒がおり、会ってみたいと思っている。
「そうやな。何がええかな。葉室さんは、本場アメリカで演劇や映像を学んだ人やし。その専門性を少し高く買っていただいて、これからは大学で非常勤の講師しようか。向こうの知り合いからも相談に乗ってほしいといわれてるし。あんまり急がんと、来年の四月あたりからでええかな?」
「それはよろしゅうございます。早速、そのように手配致します」
そう言って、満足げに何度かうなずいた。
正座の腿に置いていた手をあげて、あらためて茶碗をとる。
「ばばの炊いたコメと味噌汁は本当に美味いな。朝飯を三日食べ続けて、ようやっとばばのもとに帰ってきたという実感がわいてきた」
そう笑いかけると、小さく目を伏せ「年寄りになると、気が急くばかりで、ご帰国早々にあれこれと、申し訳ございません」と手をついた。
おかわりを出すとそれを両手で受け、また目じりを潤ませた。
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