其の四  北條 円 (Ⅳ)

文字数 2,113文字

「ようこそ、円さん、お待ちしてましたよ」
電話と同じ柔らかな優しい声。一幅の掛け軸のような凛とした立ち姿は五〇代にも見えるが、御髪の白さからすると六〇を超えておられるかもしれない。いや、お師匠は傘寿を迎えられたと言われたはず。とても信じられない。
その笑顔に引かれるままにあとをつく。白砂の海に浮かぶ平屋のお屋敷。枯山水の庭と東山に連なる晩秋の借景が息をのむほどに調和している。キュッキュッと白石を静かに踏む音さえも、心地よく花鳥風月と一体をなしている。
子供の頃から、様々な国の大使を務められたお父様の御伴をして、アラビアンナイトの童話にでてくるような桁違いの財力や権力を持つアラブの王族、石油王のお城のような邸宅のパーティに、何度もおつれいただいた。そのため、贅を尽くした煌びやかな豪華さには、それほど驚かない。
その対照にあるというべきだろうか。荘厳さと包み込まれるような郷愁を併せ持つこの不思議な芳香は、これまで諸外国でみたどの御屋敷とも違う。五感を澄ますと、単純な空間的広がりではなく、そよぐ風、草木一本、苔一むら、ひとつひとつに、日本古来の濃密な時間、精神的な深遠を感じる。

「どうぞ」
「頂戴致します」
庭から続く山裾にある侘びた茶室で、御薄をいただく。
自然で格調高く、優雅でどこか涼やかなお点前。太い飲み口と独特の歪み、飲み傾けるとそのまま吸い込まれてしまいそうな漆黒の碗。黒織部の沓型茶碗。桃山時代のものだろうか。以前、よく似たものを、日本文化を紹介したボストンの美術館で目にしたことがある。お招きいただいた場合、御茶碗や茶道具についてお伺いするのだけれど、その賢しらな言葉がでない。口唇と手に触れるひんやり温かみのある感覚は、喫茶を超えて、まさに快楽というべきもの。
お家元が、茶室はひとつの宇宙であると言っておられたのを思い出す。それは決して比喩や誇張ではない。苔、草、花、木、山、岩、風、そして主体と客体。うつろいながら何ひとつ変わらず、一つ一つの命が揺らぎながら存在している。ちいさなお碗、お茶室、そしてこの家そのものが、上下四方、往古来今、陰陽を一点に集約し、放射している。
(私も、宇宙の芥として、ただ自然のままにここにいよう)
身の内に張り詰めていた気がふっとやわらいだ。

「お持ちいただいた、笛の音を聞かせていただけますか?」
家宝の龍笛を持ってくるようにと言われていた。薄茶をいただきながらの、京都での暮らし、お父さまの話が一通り終わると、おもむろにそう促される。
「では」
背筋を伸ばして一礼すると、耳を澄ますように鳥の声がぴたりと止んだ。
【壱越調 迦陵頻破】 
お父様のお好きだった調べ。ゆったりとした高音、低音が混ざり合いながら、時空を満たしていく。私の出しているいつもの音ではない。笛がおのずからこの小宇宙に共鳴して奏でているよう。その音に乗って一気に龍が舞い上がり、円を描きながら降下する。
お父さまも、ここで茶を喫されたのだろうか、この龍の音を聞かれたのだろうか。
眼を閉じると、余すことなく細微に至るまで、この家の全景が見えた。

「智久殿が亡くなられて、もう二年ですね」
北條の紋のある黒漆塗の筒に笛を収めると、背中にそっと手を置くような優しい声が届く。私の現在の状況、心情について、全てご存じだと直感したが、それが不思議でも、また不快でもなかった。
「父を亡くしましてから、寄る辺もなく、浮き草のように漂っております」
柔らかな笑みのまま、言葉を反芻するように二度、小さく頷かれる。
「水の流れに逆らわず、孤独に耐え、なおしっかり根を張って生きている浮き草を、私はことのほか愛しています」
その言葉に不意に涙がこぼれそうになり、小さく頭を下げる。
「円さん。人はみな天から与えられた天分というものがあります。ただ、多くの人はそれに気づかずに、その生を終えていきます。この時分に合わせて、智久殿がここにあなたをお招きになったということは、間違いのないことです」
そう言うと、何かを見通すかのように静かに瞑目される。
「人間の営みとは、すなわち他者との関わりです。この数週間の間に、大きな転機となる出会い訪れるでしょう。それを活かせるかどうかで、これからのあなたの人生は大きく変わります」
「どのようにすれば、よろしいでしょうか」
「自然のままに受け入れることです」
「自然のまま」
「そうです。天命を阻害するものは、あなた自身が囚われている識です。むろん、それは円さんだけではありません。多くの人がそうなのです。誰しも気づかぬうちに小さな殻をつくり、それに閉じこもっています。世間的な知や我にすがるが故に、みずからに限界を作ってしまうのです」
そう言うと、ゆっくりと瞼が開かれた。
「いま、その殻を破り、あなたの本来の力を解き放ってくれる人が近くに現れています。その方の手を借りて、一つ階段を上がることができれば、きっと、またお目にかかることができるでしょう」
その言葉が、体の中に深くしみ込んでいくのがわかる。お父さま以外の男性の顔が初めて浮かび、胸ではなく丹田のあたりにその熱が集まっていく。
このような感覚を、子宮が疼くというのだろうか。
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