其の八  葉室 聡志 (Ⅳ)

文字数 2,918文字

「それは何もみっともないことではありませんよ。単純な興味であれ、切実な理由であれ、人生は一度しかないとわかっていても、変身願望というのは誰しも持っているものです。では、わたしたちの世界に少し足を突っ込んで見られますか?」
こちらからも、相好を少し崩して少しずつ親和性を高めていく。
「はっ、えっ、はい。それは是非に…」
「では、映画の出演者を決める時に、新人の女優さんに行っている簡単なレッスンをしてみましょう。キャスティングと呼ばれる適性診断です。ちょっとお待ちください」
立ち上がると自分の部屋に戻り、アメリカから届いたばかりのシナリオを持ってくる。
「俳優養成の学校では、宇宙人になれとかニワトリになれと言われるそうですが、ここでは想像できる範囲で正反対の人生にトライしてみましょう」
静かなモーター音とともに、窓の外にある遮光のブラインドが下がり、室内の照明がゆっくりと落ちていく。テーブル上の薄いランプが灯され、窓ガラスには二人の姿がくっきりと映りだされる。

「心の準備はできていますか?」
「がんばります。よろしくお願いします」
そう言うと、緊張をほぐすためかコミカルな笑顔を見せ、準備運動のように上下にほそい肩を揺らせると一つ大きく息を吐く。
「あなたは、一晩百ドル程度で身体を売るニューヨークの場末の娼婦です。表面的には大人しそうに見えますが、警察にやっかいになったことも数知れず。何度も男に騙され、猜疑心に強く、金に汚いことから仲間にも嫌われています。今日中に千ドルを地元のボスに渡さないと、命の危険に晒されるというところまで追いつめられています。いま、小金をもっている気の弱そうな日本人の中年男性をホテルに連れ込むことに成功したところです。少しでも多くのお金ふんだくろうと誘惑を開始します」
その人物設定を二回繰り返す。その言葉を身体にしみ込ませるように聞いていたが、目を閉じ軽く首を左右に振ると、何度か大きく深呼吸をする。
ぬるくなったコーヒーを飲み干すとカップを横にして、飲み口の部分を円に向ける。
「カメラはここです。セリフはありません。準備ができ次第、いつでもどうぞ」
促すように、スタートカットの要領で、指をパチリと一度鳴らす。
薄く目を開くと、ぎこちない演技をスタートさせる。ゴシゴシと頭をかいて、整った髪の毛をバラバラにする。タバコの煙をゆっくりと吐き出すように唇を尖らせながら、目を細めて、草色のベストを肩から後ろにずらすと、顎を上げて小さく息を吐いてソファにもたれかかる。なめつけるような表情で小指を噛むようなしぐさを見せ、ゆっくりと右足を上げて左足に重ねる。その行動に合わせて、自然な形で淡いベージュのスカートを太腿の真ん中までチラリとずり上げる。
カッターブラウスのボタンを外しながら物憂げに視線を絡ませてくるが、視線の淵が泳いだ瞬間、沈黙と羞恥に耐えきれず、自分の殻の中に逃げもどってしまった。
この間、まだ指音から三〇秒も経っていない。

「はい。カット」
「……」
「適切な評価をするには短い時間でしたが、初めてにしては決して悪くありません。『真面目なセレブが、夫の浮気の腹いせに、緊張しながら懸命に若い書生を誘っている』という役柄であれば、合格点を差し上げます。どうです。なかなか難しいものでしょう」
「はい」と、スカートの裾を直しながら照れた笑顔で応える。
「真面目なセレブが書生を誘うというシナリオのままだと、自我の殻の中に閉じこもっているのと何もかわらない。では、この娼婦が置かれている状況をもう少し、深堀りしてみましょう。ト書きを覚えておられますか?」
「金銭的に困っていること。時間がなくて焦っていること」
「そうですね。でもそれだけでは、表面的すぎるかもしれませんね」
「どういう風に考えていけばいいのでしょうか」
「シナリオを読み込んで、そこに書かれた言葉の中から役柄に合わせてイマジネーションを膨らませるのが俳優の仕事です。彼女はどのような幼少期を過ごしたのか、どうして性格が歪んだのか、家族・兄弟はいるのか、なぜ場末の娼婦にまで落ちぶれてしまったのか。そのため最初に結末までのシナリオを渡す監督もいれば、時間軸を重要視してそうしない人もいる。サスペンスで自分が犯人だとわかっていると、どうしてもそれに引っ張られてしまうからです。それも監督の腕の見せ所です。折角なので、このト書きだけで一緒に考えてみましょう」
「はい。お願いします」
そういうと、もう一度、きちんと座り直す。
「最初に書かれているのは大人しそうに見えるということ。そこから、一見、娼婦に見えない質素、または清楚いで立ちであることがわかります。薄化粧であること、太っていないこと。あと年齢はそうですね。若くはないけれど、それほど年齢を重ねているわけでもないというところでしょうか」
「はい」
「では、二つ目の何度も警察に厄介になっていること。そこから、どのような性格であると想像できますか?」
「カッとなりやすいこと。ただ、それは破天荒というよりは破滅的というか、自暴自棄や投げやりというイメージでしょうか」
「それはなぜでしょうか」
「大人しく見えること自暴自棄になりやすいことは、精神的な疾患でない限り、その人物の中に相反する二面性があるということです。もしそれが、彼女が生きていくための計算・策略なのであれば、ここまで追い詰められることはないはずです。実際、何度も男に騙されているということから、娼婦として生きていくには少し甘いところがある。そのため、元々は幸せな裕福な家庭に暮らしていた、それなりの教育をうけていたということではないかと推察します。それが、何かの原因、例えば両親が騙されて没落した、会社が倒産したなどの不幸な出来事があり、自分も男性に騙され続けて、転がるように人生の転落を繰り返し今に至っている。でもいまも幸せな時代のことを忘れられない。だから、娼婦に見られないような大人しい、清楚な格好をして、娼婦仲間にも嫌われている。その希望と現実との間でのたうち回っている、そんな気がします」
さすが、智の娘というところだろうか。
豊かなイマジネーション、複合的な心理描写は言うまでもなく、その前提となる細かなト書きの情報をきちんと頭の中で一言一句、反芻できているからだ。
俳優(女優を含む)に行うこの手のキャスティングは、特に新人の場合、その役柄の適正を見るというより、その俳優の心理的・情緒的な側面を見るというということに重点が置かれている。同じト書きであっても、そこから「悪い人・良い人」といった一面的な性格しか読み取れない人もいれば、怒り、哀しみ痛み、憐れみなど複合的な感情・心理をイメージする人もいる。これは言葉だけでなく人を見る上でも重要なこと。「娼婦」だけで人物像を定型化、ラベリングするようでは、役者としてもその先には進めない。
「すばらしい。パンドラの箱の逸話を引くまでもなく、不幸な境遇に身を置いている人にとって、希望というものは明るい未来だけではなく、その人を最も苦しめるコインの裏表だと言ってもいいかもしれません。そのギャップが彼女の本質です」
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