其の五  佐倉 真希 (Ⅰ)

文字数 2,741文字

お店のソファにぼんやり座りながら、なぜかふと高校時代のことを思い出す。
お弁当の可愛い包み方、ラブレター誤配事件、恐怖の持ち物チェック…。
お箸が転んでも可笑しいお年頃、それが当たり前の日常だと思ってた。
お父さんが逮捕されてから、友達も少しずつ減っていった。街中ですれ違っても、目を伏せられるし、声が聞こえなくてもヒソヒソと何を言っているのかわかる。できるだけ知った人に会わないように、気づかれないように、最後は自分が気づかないようにしてた。
もちろん、みんながそうだというわけではない。でも、最後まで信じてくれていた親友は、昨年結婚して遠くに行ってしまった。結婚式に出席してほしいと言われたけれど、私の方で遠慮した。電話で泣きながら怒られたけれど、「ゴメン」としか言えなかった。子供を抱いた年賀状が送られてきたけど、その当たり前の幸せ光線があまりにも遠く、痛かった。
プロムナードをご贔屓いただいたお客様も、永井たちの嫌がらせで、この三ヶ月ほどでみんな離れた。「負けないで」と一緒に頑張ってくれたホステスさん達も、もういない。電話もメールもラインも、この数か月ほとんど鳴らない。

お父さんのことを恨んではいない。
大人になると、政治の世界は単純な正義や善悪ではなく、魑魅魍魎の巣食う暗い世界であることがわかってくる。お父さんだって完全な人間ではないし、私の知らないこともあると思う。ただ、テレビやニュースで言われたような厚顔無恥な人ではない。「永井と警察に諮られた。万策尽く。知子、真希、すまない」と一行の手紙を残し、自室の梁からぶら下がっていたその姿、頬に伝っていた一筋の涙を思い出すとやりきれない。その悔し涙のぬくもりは、今も手の中に残っている。
永井は、元々は父の秘書をしていた人間で、少しの間、家の離れに住んでいた。友人の保証人になって経営していた会社が倒産し、その時に奥様は亡くなられたと聞いた。お父さんは、そういう境遇の人を積極的に秘書にしたり、生活が立ち直るように支援したりする人だった。木村も黒木も同じ。味方だと思っていたのに…。
みんな、永井に騙される。それは「悪い人に見えない」というよりも、始めはちょっとからかったり意地悪したくなる、人に優越感を与えるような人だから。人にペコペコ、汗をかきながら、ちょっと感動するだけですぐにうるうるする。「鈍なとこもあるけど、一生懸命」というイメージは今もかわらない。
でも、私は子供の頃から永井の本性を知っていた。自分よりも強い人間に取り入るのが上手く、弱い立場の人には容赦がない。何人ものお手伝いさんが逃げるように辞められ、飼っていたヨークシャテリアのチロルも、彼を見ると怯えて吠えた。
お父さんに人を見る目がなかったと言えば、それまでだけれど…
「私は佐倉議員を信じている」と号泣会見した陰では、「聞く耳をもたなかった」「もう少し私に力があれば…」と触れ回っていいたという。この二年はまったく何も言ってこなかったのに、三回忌には何事もなかったようにやってきて、「何でも力になるから」と気持ち悪く手を握られた。
いまでは愛人になれと、甘い言葉とやくざを使って様々な嫌がらせをしてくる。警察にも連絡したけれど、永井の手が回っているのか、犯罪者の娘だと思っているのか、民事だとか、事件性がないとか、薄ら笑いで何も取り合ってくれない。お父さんの古くからの議員仲間の人達も、関わりを避けるように「京都から離れたほうがよい」と言う。
先週、病院で担当のお医者さんに呼ばれ、お母さんは、今年いっぱいは持たないだろうと告げられた。哀しいことに、それを聞いてほっとした。何度も死んでしまいたい、お父さんのところに行きたいと思いながらも、それでも生きてきたのは、お母さんがいたから。
優しくて、お茶目できれいだったお母さんも、お父さんが逮捕され自殺してから、人が変わってしまった。世の中のすべてを憎み、恨み抜いて、やせ細り、寝顔さえも鬼のような形相をしている。そんな姿を見ているのは辛い。
他の人から見れば、わたしにも鬼が憑りついているのかもしれない。でも、もう少しだけ頑張れば、わたしももうこれ以上、生きていなくても良くなる。もう一度あの頃のように、静かな場所で、親子三人、一緒に暮らせると信じている。
そこがどんな地獄だろうと、いまよりずっといい…。
それが、わたしの人生最後の真の希み。
カウンターのガーベラが少し萎れて下を向いている。お客さんが一人も来られなくても、あの三人組に、どんなひどいことを言われても、負けないようにと毎日お店を開けて、お花だけは取り替えていたのだけれど、もう限界かもしれない。
「ごめんね…」
心の中でそうつぶやくと、赤い花びらと緑の葉がぼやけて交わった。
「もう泣かないと、決めてたのにな」
子供のようだと思いながら、白いブラウスの袖でゴシゴシとこぼれ出る涙を拭くと、袖口が潤んだアイシャドーで紫に滲んだ。

この一ヶ月で、お客様と呼べるのは、お一人しかいない。
「いらっしゃいませ サトシさま」 
そう口に出して言ってみる。少し勇気がでる。
お話しを聞くのが仕事なのに、なんだか子供みたいに、わたしばかりがはしゃいでた。
この仕事をしていると、直接お伺いしなくても、どんなお仕事をされているのか、結婚されているのか、また好みの話題や女性のタイプなど、色々なことがわかるようになる。ご機嫌が悪いな、お仕事で嫌なことあったかな、体調が良くないのかな、まとわれた空気というか、雰囲気の揺らぎのようなものも見える。
サラリーマンでもないし、弁護士や公認会計士といったタイプでもない。
おいくつくらいだろう。お若く見えるけど四〇前かもしれない。
帰られた後で重ねて置かれた一万円札を見ると十枚もあった。こんな小さなスナックでは、いただきすぎなので、そのままお店の金庫にしまってある。イメージとして一番近いのは青年実業家だろうか。ユーモアがあるのに穏やかで落ち着きもあって、それも少し違うような気がする。どこかでお話ししたことがあるだろうか、一度、お店に来られたことがあっただろうか。お目にかかっていれば忘れることはないはず。でも、どこか懐かしい匂いのする人。
お話ししている時、知らず知らずのうちに薬指に目がいったけど、リングも、その跡もついてなかった。だからって、どうってわけじゃないけど。
この間は、たまたま入れ違いになってよかった。でも入口にやくざ者がいたら、今の私のことを知ったら、びっくりして帰られちゃうだろうな。指切りげんまんしたけど、また来てくれるかな。もう一回、ゆっくりお話ししたかったな。人生の最後にもう一度、ギュっとしてほしかったな。
また涙が溢れてきた。
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