其の壱  御蔭 髙 (Ⅰ)

文字数 2,089文字

円と一緒に、夜の祇園町にでる。
師走も十日を数え、華やかなクリスマスムードに包まれている。
この街の特殊な空気を感じるのも、十年ぶり。刻々と目まぐるしく変わるもの、百年、千年変わらぬもの、時を継ぐもの、代を紡ぐもの。淡いおふくの妓が、辰巳神社の前で小さく手を合わせ、また次の座敷に早足で過ぎていく。
「倶楽部 華夕」は、辰巳神社に近く、祇園白川から目立たない奥まった路地を入った古い京町屋、路地のどんつきにある。入口の隅に置かれた三角の盛り塩と小さな石灯篭に火が入っているだけで、店の名前も出ていない。ママをしている夕の他には、ホステス六名とバーテン一人という、こぢんまりとしたクラブだが、京都の財界人や文化人が隠れ家として集う静かな店として知られている。
「いらっしゃいませ」
入口のところで迎えてくれたのは母性的な色気のある、二十代後半の品の良いホステス。身体の線にフィットした白いシンプルなドレスが良く似合う。
こちらの装いはグレーのハイネックに縦縞のジャケット、細い眼鏡。上品な青年実業家というところ。お客を送りにでているのか夕の姿が見当たらない。客をそらさない丁寧な対応だが、ふらりと入ってきた一見の客を中に入れてよいか、迷っているのがわかる。
こちらも、夕に会いに来たわけではない。出直すかと思っていると、奥のカウンターから声がかかった。

「おぉ、これは、これは」
ひょっこりと顔を出してくれたのは円の龍笛のお師匠。髭と同じ色のふんわりとした白いトックリのセーター、芥子色の作務衣。お酒も女性も大好きだという自由自在、軽妙洒脱な御仁である。ホステスは、ホッとした顔を見せ、「失礼いたしました。どうぞ」と店の中にいれてくれる。十年ぶりの邂逅となる。心持ちふくよかになられただろうか。お手伝いいただいたことは聞いていたが、帰国後、会うのは始めてのことになる。
「これは千国さま、ご無沙汰しております。先日、アメリカから戻ってまいりました。先代と玄の神葬祭ではお世話になりました」
「お戻りになるのを、心待ちにしておりましたぞ。さっ、どうぞどうぞ、お座りください。わたしの店ではございませんが…」
そう目尻をさげて、楽しそうに笑う。
御蔭家は、神道を奉ずる家柄であり、葬儀などは神式で行う。一年の内、幾日か決まった日に伝統的に続く祭祀、儀式が行われる。それをつかさどる神官がお師匠こと、千国頼成氏である。僕にとっても龍笛や笙、琵琶といった雅楽を手ほどきしてくれた師であり、御蔭の家のもの以外で、当主の顔と正体を知っている唯一の人間だと言ってよい。卜部家の流れをくむ代々続く神官の家柄であり、浄階の階位を持ち、八藤丸文大文白の袴をはく、官幣大社の先代宮司である。
「お師匠さま、もう一度お会いできるのを心待ちにしておりました。その節は大変お世話になりました」と、円も体を寄せた。
「うちのばあさんが、円ちゃんが最近お見えにならないのを気にしておりましてな。『年甲斐もなく若い娘さんに懸想して、嫌われるようなことをしたのではないか』と叱られて閉口しておったところです。こうしてお二人をみると、やはり何か、特別な縁をかんじますな。智久殿も、さぞかしお喜びでしょう」
同じことが身に降りかかっても、神の名を借りれば、思し召し、縁であり、人間が行えば針・謀である。その言葉から受けるイメージは対照的であるが、今なお世界中で神の御名のもとに行われている蛮行を見ても、彼らが人間に好意的だとは思えない。それを一番わかっているのは、お師匠のような、神の一番近くで生きている人間なのかもしれない。

「チリン」
優しい鈴の音がして夕が外から戻ってくる。
祇園甲部の元芸妓で踊りの名手、華夕と言えば花街で知らない人はいない。くすんだ絹鼠に琳派のやり梅という落ち着いた着物姿。四十半ばとなり、ますます色香が増している。京都に帰ってきて二ヶ月程が経つが、直接会うのは帰国後初めてだ。
僕に気付くと、一瞬、柔和な目が大きくなったが、その後は変わらず、ゆったりと来客一人ひとりに丁寧に声をかけ、ホステスとバーテンダーに指示をした後で、「どうぞ、こちらへ」と、奥の隠し部屋へそっといざなう。
「夕、ただいま」
「おかりなさいませ。コウ様、お待ち申し上げておりました」
部屋に入って声をかけると、片膝をついて両手を前に重ねて頭を下げたあと、破顔して首に抱きついてきた。一般家庭のそれとは少し違うが、子供の頃から一緒に暮らした大切な家族、姉である。ひんやりと冷たい頬が心地よい。帯の下に左手を入れて、抱き寄せると腰をひたと擦りつけて小さく鼻をすすった。子供の頃から変わらない、いい匂いがする。
「日本に帰ってくると、『げに恐ろしきは女なり』ということを実感します」
「日ノ本は、天照さまがおつくりになった国ですからな。円ちゃんも、拙宅に来られていた頃とは違う人物のように、後光が差して輝いておられる。そう思うと、やはり男なんぞというものは、女性の喰いものでしかないということですな」
自身がさも滑稽な存在であるかのように、小さく首を振って、頭をつるりと撫でた。

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