其の九  葉室 聡志 (Ⅴ)

文字数 2,708文字

「さて、もう一つ。この役を理解する上でもう一つ重要な要素は何でしょう」
「彼女がいま、おかれている危機的な状況です。今日中に千ドルを地元のボスに渡さないと、命の危険に晒されるというところまで追いつめられています。彼女に、もうこれ以上落ちるところはありません。サディスティックな金持ちに嬲り殺されるか、それとも見せしめに二度とお客をとれないような身体にされられるか…」
「だから、彼女は焦っている」
「はい。ただ、彼女はもうどこかで諦めているのではないでしょうか。普通の娼婦であれば強盗をしても…というところでしょうし、彼女もそう思ってはいるでしょうが、同時に自暴自棄というか諦観というか、そんな気持ちもあるのではないかと思います」
「それは、どうして」
「今日中に千ドルを地元のボスに渡さないと、命の危険に晒されるという差し迫った状況です。今日はなんとかクリアできても、もうその先はありません。これまでそんな悲惨な境遇の娼婦もたくさんみてきているでしょう。今日が私の人生最後の日になるかもしれない、ホテルの柔らかいベッドで眠ることもない、この目の前にいる男が私の最後のお客になる、私を抱いてくれる最後の男になる…。どこかで日本の言葉でいう「一期一会」に似た感情も抱いているのではないかと思います。アメリカにはそのようなニュアンスの感情、言葉はありませんが…」
役柄に対する共感や哀れみ、慈しみのようなものが内面から浮き出てくる。それと同時に貞淑、貞操、道徳と十重二十重に重ねられた絹の中からふわりと官能の香りが立ち上ってくるのがわかる。
 「ずいぶん、人物像のイメージが膨らんできましたね。素晴らしい着眼、イマジネーションだと思います。とても良いところを突いておられると思います」
「恐縮です」
「もう少し、続けられますか?」
「あっ、はい。お願いします」
「では、そのイメージで、もう少しシナリオを進めてみましょう」
やわらかな口調のままで、追い詰めていく。
「男は真面目で臆病な性格で、女性に対する経験値は少なく、酒の勢いで声をかけたものの女を買ったのは初めて。下手な英語でアメリカに来た理由や上司や仕事の愚痴を続けるだけで、自分からは行動を起こしません。そのため娼婦は胸元をはだけ、膝を立ててスカートの中を見せつけるように、より積極的、直接的な行動に出ます」
「えっ?」
「ソファにどっかりと腰を下ろし、大きく背筋を伸ばすところからスタートします。その時点から表情ががらりと変わり、感情がむき出しになっていきます。三分続く長く重要なシーンですが、セリフは一言、『Hey man』だけです」
カットがかかるまで演技を続けるように言い放って、そのまま指をパチリと鳴らす。

文豪や音楽家とは違い、名優と言われる人に天才肌の人はいない。
精神分裂病や二重人格のように「役柄が憑依する」という人がいるが、残念ながらそれは本人の中にある「こういうお医者さんいるよね」「ギャングの親分ってこういう人だよね」という表面的なイメージを踏襲しているにすぎない。それでは、四番手、五番手の脇役としては重宝されても太い役はもらえない。
いま、アメリカの映画界では「端役はAIやCGに代わっていくだろう」と言われており、それに対する反対運動も起きている。誰でもできるルーティンの仕事は、事務でも製造業でもサービス業でも、そして俳優業でも人の仕事ではなくなっていく。恐らく、日本の量産型のドラマもアナウンサーも二〇年後にはAIやCGに置き換わっているるだろう。これは産業革命の宿命だ。
ただ、主役級の役柄は人間でなければできない。それは映画というのは、ストーリーやそれに伴う喜怒哀楽だけでなく、人間がその内に潜めた業を撮るものだからだ。コメディでもSF映画でも、アクション映画でも同じ。それがマンガやアニメとの違いだと言って良い。そのためには、その人物の生きざまをなぞるようにあらゆる側面からスポットを当て、内面から同じ悩み苦しみを味わい、まさに空の色が変わるまでの努力が必要となるのだ。それは人にしかできないことではあるが、そう簡単なことではない。

大きく背筋を伸ばし、飛び掛かるような目を投げつけてくるが、恥ずかしさと緊張、不安と興奮、官能がないまぜとなり、取り巻く色彩が変わっていく。その変化を見透かされるのを避けるように、直線的な視線を外す。両足を揃えたまま、スリッパからそろりと抜いて浮かせ、指先だけを小さなガラステーブルの端に乗せるが、両膝は拳一つ開いていない。拗ねたように尖らせた唇だけが必死で演技を継続しているが、形の良い小指の先までむらなく塗られた、口唇と同じ薄いピンクパールのペディキュアは、こちらを向いたまま震えている。
「それでは、シナリオが変わってしまいますね」
彼女のコーヒーカップのハンドルをくるりと回し、口をつけると、足を乗せたガラステーブルをゆっくりと蹴って近づける。保っていた姿勢が崩れ、「きゃっ」という小さな叫び声とともに、体が三人掛けのソファの背もたれに、斜めに倒れかかる。
急激な展開に、息が荒くなっていく。少しずつ足を広げようとするものの、反射的にスカートを手できつく巻き付け、自分の恥ずかしい場所を、まっすぐな視線から守ろうとする。膝を抱えた姿が窓に映り込み、追い詰められた瞳がガラス越しに揺れている。
・・・・・・・・・・


「はいカット。ここまでにしましょう」
沈黙を断ち切るように一つ手をたたくと、笑顔で正面に向き直った。
「ごくろうさまでした。どうでしたか?」
ごくりと喉がなる。
「ここにあるのは、来年の夏か秋にハリウッドでクランクインされる映画の台本です。本当はコミカルでハッピーエンドの話なんです。男性は贈収賄事件に巻き込まれていて、二人で巨額のお金をもって警察やギャングからニューヨークの街を逃げ回ります。それが米中の経済戦争にまで広がっていきます。ハリウッドでも同じようなキャスティングをしているはずです。主演の日本人俳優も決定間近だと聞いています。きっと日本でも上映されると思います」
「・・・」
「ずいぶん意地悪な設定でしたね。宇宙人やニワトリほうが簡単だったかもしれません。ただ、申し上げた壁と殻の違いがお分かりいただけたでしょう。それは表層的に風景を塗り替えるようなものではありませんし、ましてやヌードになるとか、からみがあるという単純な話でもないのです。もっと頑強な物理的な殻です。ただ、あなたは女優にも娼婦にもなる必要がない。今のままでも十分に魅力的ですし、今の殻の中でも、人並み以上に幸せな人生を送ることができると思いますよ」
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