其の拾  葉室 聡志 (Ⅵ)

文字数 2,582文字

「待ってください。まだできます。もう少しお願いします」
一寸ほどの逡巡のあと、自分の弱さにあらがうように声を上げると、抱えた膝をゆっくりとはずす。テーブルが押し込められたため、膝の位置がより高くなり、白いレースのショーツと鼠蹊部の境にまで風と光が入っていく。その中心部を声もなく見つめ続けると、彼女の官能がじんわりと染み出てくる。
「この先はどうすれば、よろしいでしょうか」
「ト書きには、この後、娼婦は唇を丸くなめながら足を大きく広げ、下着をずらせて体の中まで見せつけてくると書いてあります」
細い首筋が、ゴクリと息を飲み込む。これまでの整然とした透明な口調から、エントロピーが変化するときの微熱を含んだ潤んだ声にかわっている。
「自分を変えたい、変わりたい口にする人は多い。けれど自我を形成している常識やプライドを取り払うということは、自我を開放して高いステージに上がるか、人格が崩壊して何も見えなくなるか、その二つに一つ。本当に変わるのであればその覚悟が必要です」
ゆっくりと立ち上がって、ギュっと閉じた瞼の後ろに向かう。
上からのぞき込むように視線を合わせると、右の手のひらを閉じた瞼の上から覆い隠すようにひろげ、小さな額に沿わせ親指と薬指でこめかみを軽く握る。顎を上げるように、円を描くように、ゆっくり、ゆっくりと前後左右に振る。
「頭の中で娼婦を理解、共感しようとしてはいけない。あなたの中に押し込められている哀しい境遇の娼婦を感じてやるのです」
下腹部の熱が拡散するように全身に回り、体の力が抜けていく。静かな碧い泉に投げた石の波紋が広がるにつれ、水面がざわめきはじめ、湧き出る溶岩に侵食されるように染まっていく。手を放すと、目を閉じたまま、白い喉が微かに上下に動く。ゆっくりした動作で、白いブラウスの胸で結ばれたリボンをほどいていく。ショーツとお揃いの、上品で細やかなレースのブラ。その上から柔らかな胸をつぶすように強く握りしめる。
「あっ、あぁ~」
煙を吐くような長いブレスのあと、頸がガクリと後ろに落ちた。
ほっそりした指をのばして甘えかけるように頬をなでてくる。のぞき込んで唇を重ねると、モカの香りが体を伸ばして追ってくる。静止した時間の中で、首筋から耳元へと赤味が広がり、息遣いだけが荒くなっていく。
帯にたばんであった刃渡り五センチほどの小刀を出すと、胸の谷間に滑らすように刃を入れ、下から上へ垂直に断ち切る。プツリと小気味の良いワイヤーが切れる音に合わせ、ツンと尖った円錐型の大きなふくらみが、はじかれるように飛び出す。
継ぎ目のない白い肌の先にある薄桃の乳輪。左手で張り出した片方の胸を無骨に握ると、目を閉じたまま官能的な痛みに眉間が寄る。親指と人差し指で荒々しく刺激を加えると、乳首が立ち上がり、その根元から固く凝ってくる。
絹のような細やかな肌の続く、柔らかく引き締まったウエストライン。変わらない右曲がりの癖のある小さな臍。後ろから手を伸ばし、高級レースのショーツを左手で無造作につかむ。縦の割れ目に沿って食い込ませると、最も感度の高い場所を刺激するように擦り付ける。引き上げて小刀を水平に動かすと、最後の砦だったレースの布が、その役割を放棄するようにパタリと落ち、切れ端は割れ目の後ろに逃げ込んだ。
律儀なほどにまっすぐに揃えられ、足の付け根に沿わせた細い一〇本の指が震えている。それでもなお懸命に、自らの手に力を入れて大きく広げていく。息を吹きかけると、しなる柳が戻るようにビクンと跳ねた。
瑞穂から成熟に向かう過程にあるしっとりと色づく女の肌は、大波小波に翻弄されながら、飽きることなく、迷うことなく、無心で怒張を受け入れ続けた。指を添わせ頬ずりしながら、唇を丸めてなんども口中に含んだ。全身を震わせながら、前から後ろから、下になり上に乗せられて、獣のように何度も咆哮、痙攣した。



ベッドの隣で汗みずくのうつぶせのまま、ぼんやりとこちらを向いている。
「覚えていないだろうが、わたしは円が子供の頃に父親の智久と一緒に会ったことがある。円が探している御蔭とは僕のことだ」
荒い息がピタリと止まり、驚いた表情で、そのまま凝視している。
円に関する綴方には、いずれも「知的で清楚な正統派の美人」と評されているが、それは彼女の性格、雰囲気、振る舞いがそう見せているにすぎない。涙袋が大きく、ふっくらした頬に目じりがつながる顔立ちは、どちらかといえば、子猫のようだといった方がよい。
「これほど手のかかることをしたのは、円に御蔭の家のことを思い出させ、理解してもらうため。北條は御蔭に連なる家で、智久には、日本でもアメリカでも何度も会っていた。御蔭では彼のことを智(トモ)と呼ぶ。四年前にがんが発覚し、自分の命がそう長くないと知ってからは、円の行く末を見守ってほしいと託されていた」
「父は、父も御蔭一族の人間であったということでしょうか」
「そう、そして円も」
「お父さまが御蔭、私が…御蔭……」
そう小さな声でつぶやいた円の頬に、一粒の涙がこぼれた。
「今日から、智に代わって、僕の身の回りの世話をする補佐役となり、御蔭の役割を果たすために、あらゆることの手助けをしてもらう。今のご主人は御蔭とは何の関わりもない。もう彼は日本には戻ってはこない。本人の希望通り、このままマサチューセッツの研究機関で教授として働くことになっている。彼の研究資金はすべてこちらでだす。後の詳しいことは、ばばに聞けばいい。円の笛をもう一度聞けることを心待ちにしている」
数回、瞬きを繰り返す間に、断片化された記憶がデフラグされていく。ここに来るまでの様々なエピソード、表情が一つの答えに導かれていたことに気づいたようだ。そして、もとの凛とした顔に戻り、はだかのままベッドから降りた。滲んだ紅を指先で拭き取り、手早くみだれた髪を整えると、そのまま平伏した。
「北條 円でございます。未熟者ではございますが、亡き父の意志を継ぎ、命を懸けてお仕え致します。どうぞよろしくお願い致します」
長い間、頭を下げていたが、ゆっくりと直る。
「よろしく頼む。では、まず風呂に入れてもらおうか」
ベッドから脚を下して手を伸ばすと、「かしこまりました」と、その手を取って立ち上がった。その色と香りは、子供の頃よりも濃厚で芳醇になった。
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