其の四  御蔭 高 (Ⅳ)

文字数 2,166文字

華夕にもどったのは、午前一時を超えていた。
入口に置かれた小さな石灯篭の灯りも消えている。
店の中からは、微かに龍笛の音が漏れ聞こえてくる。
【龍笛独奏 双調 陵王】
北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ雅楽の演目。五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将だったが、眉目秀麗だったために、兵卒の士気が下がるのを恐れ、獰猛な仮面をつけて戦ったという。部下をいたわり、謙虚な人柄で知られたが、その武功を皇帝、後主から忌避され自ら命を絶つ。
勇壮と優雅さを併せ持つ、美しく、悲しい曲である。 
笛の音が消えるのを待って入ろうとすると、内側からドアが開いた。

「コウ様、お帰りなさいませ。お待ちしておりました」
気配を感じていたのだろう。陣に会うのも一〇年ぶりになる。今年五〇の大台に乗っただろうか、体格、雰囲気は、全く変わらないが、優しい目じりの皺と共に、頭髪にも白いものが増えている。
「数日前、皆(かい)が怜を連れて、北白川の家に挨拶にきていた。もう十三か」
「はい。怜も四つになりました」
怜は養女だが、皆は陣と夕の実子。篠崎の家を実子が継ぐのは百年ぶりのことになる。実子相続を忌むわけではないが、以前は生まれた子供を他家に養子に出し、あらためて別の子供を養子に迎えることもあったという。今回は、先代が産まれた子の顔を見て、皆と名付け、篠崎の家を継がせることに決めた。
一〇年前は、まだ三歳。膝に乗ってコロコロと一緒によく遊び、「アメリカに行かないでぇ」とワンワンと泣いて困らせた。今では、折り目正しい、目元の優しい、陣の時計をそのまま巻き戻したような若武者に成長している。「コウ様、ご無沙汰しております。父、母と共にお帰りをお待ちしておりました」と両手をついた。
「ばばの話によると、相当遣うようになっているようやな」
「まだまだ、形だけで、福さまにお教えいただくことばかりです」
玄と陣の厳しいという言葉では表せない、容赦のない子弟関係が思い起こされる。子供の頃は、毎日布団の中で、父親(玄)に殴り蹴り叩き殺されるところをイメージしてから、『よし、一日に二度は死なない』と身を起こしたというという。「自衛隊や海兵隊の訓練とは目的が違いますから…」と、大人になってから笑い話としてしてくれた。
「厳しくなりすぎないように」と笑うと、「先代様からも、そう言い聞かされております。また、お手合わせいただきますよう、お願い致します」と膝をついた。
店の中には円と夕。師匠は途中で遠慮されたのだろう。
それぞれ綴方の中身や、僕が何をしに、どこに行ったのかも知っている。
夕が、温かい梅こぶ茶を入れてくれる。

口火を切ったのは円だった。
「いかがでしたか?」
「帰国早々、こんなことになるなんてな。昔の生徒のことで陣や夕まで騒がせて悪いな」
そう言って鼻をかくと、陣も頬を緩ませた。
日本では、国会議員の政治資金の問題が、年中行事のようにマスコミを騒がせているが、より腐敗が進んでいるのは、地方都市の政である。国政には、一応与野党というものがあり、双方につながるマスコミの目も光っているため、それほど無茶なことはできない。しかし、地方都市では、そのほとんどの首長が「無所属」を名目に、与野党相乗りで選ばれるのを見てもわかるように、地方行政とそれを監視する役割の議会には緊張関係はない。政党というのも選挙用の看板だけで議員間の横の関係、つながりが強いためチェック機能が働かない。
資本主義、民主主義国家において、政治家は魅力的な仕事ではない。特に地方議員は、能力の高い人間にとっては報酬が低すぎ、また自治体に自治権・裁量権はなく、九割以上が前例と談合で決まるため達成感もない。自己評価と市場価値に乖離があり、自分がいかに道徳的で能力の高い人間かを滔々とアピールできる、箍の外れた利己心、虚栄心をもつ人間でなければ政治家になろうなどとは思わない。
問題は行政、議会だけではない。それを取り巻く地方財界やマスコミまでをも取り込んで、地方都市に巣食う一大利権構造を作り上げている。そこには暴力団などの闇社会までがその一旦を担っており、地域が疲弊すればするほど、その先細る利権に群がり、地方自治体の債務はすでに返済不可能なレベルに達している。
もちろん、そのようなことがいつまでも続けられるわけではない。国の財政が破綻することはないと拳を振り上げている人は多いが、それは真っ先に地方自治体が破綻するからだ。その時代は間もなくやってくる。そうなれば、シロアリに喰いつくされた地方都市そのものが瓦解するのだが、彼らにとって、日本や子供たちの未来など知ったことではない。世を傾けるのはゴジラでもエイリアンでもなく、いつの世も目先の我欲に取りつかれた無能な白アリの集団だ。

「先代さまからも智兄さまからも、コウ様がお戻りになると忙しくなるぞと言われておりました。私どももご指示いただけることを、心待ちにしておりました」
陣の言葉に、嫋やかな夕と緊張気味の円の瞳がまっすぐにこちらを向く。
「時間はかけない。今年中にすべてケリをつける。追加のリサーチに一週間、針を下ろすのに一週間、二週間後のクリスマスの夜に謀を結す。合わせて、新しい年に向けて、いくつかの課題を整理していく」
その言葉に、三人が小さく頭を下げた。
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