其の弐  御蔭 高 (Ⅱ)

文字数 2,256文字

「少し歩いてくる」
そう言い置き、一人で祇園の街にでる。
巽橋を通って切通しの細道を南に下る。ネオンよりもタクシーの空車ランプの方が明るいと揶揄された時代が長く続いたそうだが、最近は、少し客足が戻ってきているらしい。忘年会シーズンにはまだ少し早いが、株価の上昇もあってか、金曜日ということもあり、連れ立って歩くサラリーマンも増えている。
立ち止まったのは末吉町にあるビルの前、その二階にある一軒のスナック。
斜向かいのビルの前で、電話のふりをしながら観察していると、明らかに筋の良くない三人組が誰もいない階段を睥睨し、足をけり上げるようにして降りてくる。酔客が行きかう中、スマートホンを耳にあてたまま、彼らの少し前を歩く。
「本日のお客様、合計三名様、四時間で売り上げ小瓶一本一六〇〇円ナリ~」
「何言うてるんや、釣りはいらんいうて二千円叩きつけてきたで」
追従するような下卑た笑いが広がる。
「兄貴、あの店も赤沢さんも、いつまでこんなこと続けるつもりなんすか」
「永井先生へのクリスマスの貢物やって言うてたし、それまでとちゃうか」
「それにしても、めっちゃエエ女ですねぇ。会長に絶対手出すなっていわれてますけど、行くたびに俺のダイナマイト、大爆発寸前でビンビンですわ。うちのバシタなんて、半値八掛け三割引きでええから、誰か買うてくれんやろか。でもなぁ、やくざより議員さんの方がええ女抱けるやなんて、世の中まちごうてますわ」
「ワシらにおケツが廻ってくるころには、先生と赤沢さんに、穴ぼこにされてるで」
「俺、あの女やったらケツの穴なんて贅沢はいいません。耳の穴でも、鼻の穴でもどこでもええですわ」
「お前と俺で耳の穴に左と右から突っ込んで、二穴といこかぁ…ピュピュッとな」
腰を振り、引き攣ったような高笑いのまま、信号待ちのサラリーマンを押しのけ、花見小路の車列の前を威嚇しながら横切っていく。

繩手の交叉点で、不愉快な声をやり過ごすと、引き返し店の階段を上がる。鍵が閉まっているかと思ったが、ノブに手をやると、「カランコロン」という軽やかな音とともに木調のドアが開いた。奥のソファには疲れてぼんやりと座り込んだ女性が一人。一瞬、彼らが戻ってきたのかと、射抜くような厳しい視線を投げつけてくるが、違う人だと気付いて、慌てて涙を拭いて立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
膝丈よりも長い上品な黒いスカート、首元、手首までボタンを留めた白いレースのブラウス。店の飾りや雰囲気を見ても、もともと色気を売りにした店ではないようだが、ホステスというよりも、ホテルラウンジの女性バーテンダーの服装に近い。
六人程度の小さなカウンターとテーブル席が四つ。スナックといっても本来であれば、三~四人のホステスが必要になるだろうが、その気配はない。
「一人やけど、いいかな?」
「はい、もちろんです。どうぞ、すぐに片付けますから」
彼女の名前は、佐倉真希。会うのも、また十年ぶりとなる。
その頃は、まだ高校一年生、十六歳だった。
高校の美術講師をしていたころは、「女子高生に囲まれてうらやましい」と、大学の友人からよく冷やかされた。確かに、最近の女子高生はアイドルやモデルに負けず劣らずの、美人で小顔、手足の長いスタイルの良い子が多い。うるさい校則の範囲内でも、どうすればどの角度が一番可愛く見えるのかを、それぞれによく研究もされている。ただ一年、二年と教師をしていると、その環境になれてくる。
その中で、ひときわ目を惹いたのが、この佐倉だった。
透明感があり、「先生っ~」と手放しで駈けてくるだけで、周りの空気まで華やいだ。体育祭では、望遠カメラで制服やブルマ姿が隠し撮りされ、インターネットを通じてその写真が高額で販売されるなど、社会問題の発端ともなった。それでも本人は浮ついたところもなく、成績も性格も良い、運動神経だけが少し鈍い丸眼鏡のお茶目で明るいショートカットの魅力的な女の子だった。
父親は、次の京都市長へという声があがるほどの有力な市会議員。在校中から、芸能関係者からのスカウトやアプローチが引きも切らなかったが、高校生は学力優先と頑として許さなかった。高校卒業後、東京の女子大に進んだが、タレントやアイドルではなく、映画女優としてしっかり育てたいという映画会社と大手プロダクションが日参し、その方向で、大きなプロジェクトが動き始めた。
その矢先、当の父親が、市の水道事業に絡む贈収賄事件で逮捕されてしまう。本人は最後まで認めず、最高裁まで戦ったが、一審、二審ともに有罪。その途中で抗議の自殺を図り、一命は取り留めたものの脳死状態となる。
ニュースなどでも大きく報道され、その影響から映画もプロジェクトもすべて中止。彼女は大学を中退し、父親の介護と心労で倒れた母親の生活を支えるために、この祇園で小さなスナックを始めたのが四年前。父親は、意識を取り戻すことなく二年前に亡くなっている。現在、母親も末期ガンで市内の病院に入院中だ。

「お飲物はどうされますか?」
「何かボトルを入れてもらおかな、できたら、日本のウイスキーで」
「ありがとうございます。ただ、今年一杯でお店を閉めさせていただくことになったんです。せっかく、入れていただいたボトルが途中になると申し訳ないので、今日は私がごちそうさせていただきます。と言っても、ご覧の通り、小さなスナックですから、あまり高いお酒は置いてないんですよ。何がいいかなぁ~」
そういうと、十年の時を重ね、色の香と哀しみを佩いた細い首筋を傾げた。
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