其の参  北條 円 (Ⅲ)

文字数 2,174文字

「どうして、そのお名前を知っておられるのかな?」
唯一、驚いた顔で、応じられたのは龍笛のお師匠だった。
龍笛は、雅楽で使われる横笛の一つ。お父さまのご趣味で、私も小学生の頃からその手ほどきを受けていた。その柔らかく澄んだ音色は、無為に漂うよしなしごとを洗い流し、空っぽになりそうな心を埋めてくれる。寂しくなるといつも賀茂の畔に腰かけ、歌口に唇を当てた。
二ヶ月くらい前だろうか、そんなぼんやりとした私に声をかけてくださったのがお師匠。正式な師と弟子というわけではないが、敬意と親しみを込めてそうお呼びしている。
七福神の布袋様のようにふくよかで大きな耳、白いお髭につるつる頭の御老人。以前は神社の宮司をされていたという。技術的、技巧的な教えを乞うというものではなく、週に一度、吉田山の麓にある自宅にお伺いし、笙や篳篥、琵琶などと音を合わせる。それだけでなぜか心が落ち着く不思議な御仁。
「ある方からお聞きし、一度お目にかかることができないかと思ったものですから」
バーチャルな世界の他愛のない世間話から始まったものだったが、お師匠ならばご存知なのではないかと、一縷の望みとともにどこか確信めいたものがあった。お父さまがお亡くなりになってから、何一つ頼るものがない身にとって、いつの間にか一本の蜘蛛の糸のように感じていた。お会いしてどうなるというものではないけれど、何とか一度だけでも、お目にかかれないものかと強く願っていた。

目を閉じて、じっと考え込んでおられたが、そのお答えは厳しいものだった。
「円さんのお頼みとはいえ難しいですな。私も直接はお目にかかったことはありません。それにつながるというお人を知っておるというだけです。それに今は傘寿を超えられ、よほどのことがない限り、誰にもお会いにならんと聞いています。どこでお聞きになったものかは存じませんが、その一族の名は『日ノ本の秘中の秘』、軽々しく口にしてよいものではありません。お忘れになった方がよい」
いつもの軽やかで親し気な声色ではなく、言葉遣いも変わっている。
「お訊ねいただくことも、できないでしょうか」
すがる思いだったが、取りつく島もなく厳しい顔でかぶりを振られた。
細い糸は、その存在を示すように目の前でキラリと光っただけで、触れる前に煙の中に揺れ消えてしまった。庭に向かって大きく開かれた縁側から比叡からの秋の風が入ってくる。落胆のあまり、冷えてしまった空気を変えるすべさえ持たなかった。

「私からも、一つだけお伺いさせてもうても、よろしいかな」
長い沈黙のあと、場を取りなすように、つるりと頭を撫で言葉を紡がれる。
「お手にある笛は、国宝級とは言わないまでも、文化財として博物館に飾られてよいほどの価値の高い名品です。鴨川で口にされているのを初めて見たとき、とても驚きました。それで、お声がけさせていただきました」
「これは、外交官をしておりました父から譲り受けたものです。銘はございませんが、北條家に代々伝わるものだと聞いております。価値については存じませんでしたが、私にとっては、父の形見と言って良いものです」
「お父さまのお名前は、何と仰いますか?」
「智久です、知るに日と書く智に久しいと書きます。」
空に「智久」と書いた指の間から、私の目を覗き込むようにして、じっと聞いておられた。瞳の奥が揺らいだ気がしたが、その意味をはかることはできなかった。
いつもは、おいとまする時に次のお約束をするが、そのお言葉もなかった。

それから一〇日ほどが経ったある日のこと、リビングにある電話が鳴った。
着信は京都市内からの固定電話であることを示している。知人からは携帯電話にかかってくるため、ほとんどがセールス電話か間違い電話であり、受話器を取ってもこちらからは名乗らないことにしている。
「はい。もしもし」
「北條円さんですか?」
とてもやわらかな、優しい女性の声。
「わたくし、御蔭 福と申します」
ドンという胸の響きで喉が詰まり、「えっ?」という不調法な声がでる。
「円さんですね」
「はい。大変、御無礼いたしました」
「こちらこそ、突然にお電話いたしまして」
「とんでもございません。お電話を頂戴し、ありがとうございます」
「円さんが京都においでになると耳にいたしました。実は、お父上の智久殿とは、生前何度かお目にかかったことがございます。思い出ばなしなどさせていただきたいので、お時間のある時に遊びに来てください」
何とお答えしただろうか。失礼なく受け答えができていただろうか。受話器を降ろした後も、手の震えと早鐘を打つ胸の鼓動がおさまらない。無意識の内に自ら繰り返したであろう「ありがとうございます」のフレーズだけが、乾いた唇の先でリフレインしている。約束の時間と場所を示したメモの字も震えている。大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせるために紅茶を入れようと振り向いたとき、仏壇の前にある一枚の写真が目に入った。
これはお父様のお導きであることを確信した。

秋の初風が裾をさらい、お父様の優しい瞳が着物の裾で遊ぶ童の目に戻っていく。それと同時に、ここまで訪なわれてきた記憶の着地点を示すように立つ白木の大門が、音もなく左右に開いていく。邸内を流れる小川の向こう側、小さな茅葺門の前に薄墨の紬に身をつつんだ小さな白髪の女性が立っていた。
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