其の弐拾  相原 絵里 (Ⅵ)

文字数 1,910文字

犬飼に電話をすると、朝一番で京都まで飛んできた。
昨日泊まったホテルの同じ部屋。すっきりした顔のバカ社長には詳しい話はしていない。私は別件で人と会うので、今日の営業会議を仕切るようにと伝え、先に帰している。
私が犬飼を呼びつけるなんて初めてのこと。その立場はますます厳しくなっているらしい。沈没船から鼠が逃げ出すように、部下の裏切りやリークが相次いでおり、次期社長どころか良くて追放、悪ければ業務上横領で刑事告訴、高額の損害賠償と言うところまで来ているという。
犬飼が来るまであと三〇分。シャワーを浴びて白の新しいバスローブに着替え、全身に丁寧にコロンを振る。

「どうだった。何かわかったか」
以前よりも憔悴し、焦りの色が濃い。
「いいお話しだったんですが、やはり食い込むのは難しそうです」
「どういうことだ」
本心が顔にでないように、できるだけ目を合わさず声を押えて、かいつまんで話しをする。
犬飼の耳にも、あの土地が特区構想をからめた国家レベルのプロジェクトで、新しいバリアフリーの街として開発されるらしいという情報だけは入ってきたという。
「私の預貯金は二億に届かないですし、会社も無駄金を使ったから実際に動かせるのは五千ほどしかありません。それも担保に入っているから銀行は簡単に出してくれないでしょ。銀行借り入れも、他の会社に借りるのもダメで、すべて自己資金で対応しろという話ですからね。今週中に八億の宝くじが当たりでもしない限り、無理ですよ」
「一〇億は厳しいな」
そう言うと黙り込む。手元で準備できる金額を計算しているのだろう。
「何か他に良い方法はないのか」
「あるんだったら、犬飼さん教えてくださいよ」と咥えたタバコに火を点ける。
「でもね、地場の小さな工務店だと思ってたのに、こんなに京都杉村工務店の名前が通っているなんて知りませんでしたよ。やっぱり真面目が一番なんですよ。だから、こういう時、張りぼての犬飼さんや私では勝てないんですよ」
吐き捨てるように、自嘲気味にそう言うと、犬飼は目を逸らしてじっと考え込んだ。
「その話は、ほんまに信用できるもんなんやろな」 
向き直ったその声と目が据わってきている。
「正直言えば、よくわかりません。大型物件のリスクマネジメントは犬飼さんの方がお得意でしょ。私には判断なんてできませんよ。一応、そう言われるかと思って、会話の内容をこっそり録音してきましたけど」
ペン型のボイスレコーダーをカバンから出すと、ひったくるように取り上げた。
二〇分程度のやり取りの声を、血走った目をむき出しにして繰り返し聞いている。
「俺が、一度彼らに会うことはできるか」
「それは無理でしょ。なんと言って会うんですか? ヤマトの副社長が金を出すといえば、それだけでアウトですよ。彼らは世界を相手にしてる会社です。一〇〇でも二〇〇でも右から左、一〇億なんてはした金です。大切なのは杉村工務店の独立性と信用、実績なんですよ。それしかないんですよ」
そう言うと、もう一度黙り込んだ。

私も何も言わないし、犬飼も何も言わない。
興奮が収まると、少し体が冷えてきた。
沈黙のまま、三〇分くらい経っただろうか。
「犬飼さん。私いま、あのバカ社長にプロポーズされているんです。最初は『アホか』って鼻で笑ったけど、今回のことでよくわかりました。京都杉村工務店は、私たちが喰いものにしていいような会社じゃありません。お金儲けは上手くないけど、働いている人達はみんな真面目だし、仕事は丁寧で一生懸命だし、お客さんには感謝されているし。だからね、みんなに土下座して、バカの面をひっぱたいて元の純粋な工務店に戻って、会社の隅っこで経理でもさせてもらおうかなって思ってるんです。一応、こう見えても、田舎の商業高校出身の建築簿記一級ですしね。こんな無能の私でも経理なら人の二倍、三倍お役に立てますから」
そう言うと、なぜか亡くなった池崎さんの笑顔が浮かび、涙がこぼれてきた。どうしてこんなに哀しい気持ちになるんだろう。この一〇年、どんな辛いことがあっても泣かなかったのに。それに、これは犬飼を引きこむための芝居であって、私の本心ではないはず。
顔を上げると、陽が高くあがり、東寺の五重塔が青空に映えている。
このまま、ずっと眠ってしまいたかった。
顔をあげると、ソファに座っていた犬飼の顔は赤黒く変わっていた。
「そんなことは許さん。残りの金はワシが用意する。絶対に許さん」
突然、そう大声で叫ぶと、私の身体を押し潰すように圧し掛かってきた。
身体も濡れていた。咆哮しながら私の胸にむしゃぶりつき、腰をしゃにむに叩きつける男を、久しぶりに身体の奥で感じながら、涙が溢れつづけた。

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