其の七   御蔭 髙 (Ⅴ)

文字数 1,740文字

ショパンのノクターンが小さな音でかかっている。たっぷりの汗をかいて、風呂の中で話をして気分が落ち着いたのか、希は遊び疲れた子供のように、おでこをキラキラとさせながら右手に丸まって眠っている。

「円」
静かに身体をこちらに傾けると、肩越しに互いの耳と唇が近づく。彼女は、ばばの福と同じように、ベッドに入っても僕が眠るまでは起きている。朝に目を覚ましたときにはすでに覚醒している。希を起こさないように耳元でささやくような小さな声で応える。
「はい」
「さっきの希のはなし、どう思う」
「希の言う通り、その方が単にお急ぎだっただけかもしれませんし、会社とケンカをして退職されたとか、個人的な些細な問題なのかもしれません。ただ…」
そう言うと、一度言葉を切った。
「ただ、何だ」
「上手くは言えませんが、希のアンテナに強く引っかかったということは、それ相応のことであるように思います」
そう言うと、見つめた長い睫が二度瞬きをした。
「夕から話を聞いたか?」
「はい。夕さまだけでなく、福さまも希には不思議な力があると仰っていました」
「不思議な力とは?」
「詳しくは仰られません。ただ不思議な力と言っても、それは見えないものが見えるといった、物理学的に説明のつかない超能力というものではなく、無意識の内に蓄えられた直感記憶や共感力、感応力のようなものが絡みあって、研ぎ澄まされたものではないかと思います。先日の板垣幹事長のことも、本人の中では、『ちょっと変だと思ったから』くらいの認識でしかないようです」
「予知能力ではなく、変化や予兆を感知する能力が突出しているということか。ただ、高校生の時は、普通の子でそうではなかったような気がする。何故そのようなものが、希に備わったのだと思う?」
「もともと、勘のいい子というか、その素養はあったのだと思います。ただ第六感といいますか、超人的な感受性の多くは、強烈な苦しみや哀しみ、怒り、極度の恐怖や後悔、絶望といった暗闇の中で、最期に残された生存本能のあがきとして生まれるようです。希の場合、これまでの極限的な環境の中で能力が開花し、御蔭となった喜びと責任感、それを大きく育てたのではないでしょうか」
最近、円の読んでいる書物は、海外から取り寄せた精神医学や心理学のものが多い。妹のことを心配して、その理由を調べ考えていたのだろう。
「御蔭一族にとっても、希の能力は余人に代えがたきものかと…」
希は、体術においても棒術においても技量は、その最初のステップに足をかけたほどでしかないが、常に痛みや死をも恐れず身を投げ出して戦う。陣によれば、それは刹那、福の顔色がかわるほどの気迫だという。それは身体の痣をみればわかる。
僕がしばらく黙ってしまったことを気にしたのか、「賢しらなことを申し上げました。お許しください」と目を伏せた。

「そうではない。希だけでなく、円も夕も陣も、余人に代えがたき者であり、またそれぞれに常人ではない。福に至っては不思議の固まりだと言っていい。ただ、ここまでの才能や能力が、偶然にも集まることがあるのだろうか。神や仏というものがいるならば、この時代に御蔭に何を謀っているのかと思ってな」
先代と智が、「僕がアメリカから戻ってくると忙しくなる」と陣に伝えたという。こうなることを予測していたのか。そこには他に特別な意味があったのか。それとも、御蔭が安穏としていられない時代に入っていくという遺言だったのだろうか。
静かな部屋に、希のスース―という可愛い寝息だけが響く。
「陣にその池崎さんという方の周囲に綴りをかけてもらおう。話はそこからだ」
「では明日にでも、早速お願い致します」
子供のようにすやすやと眠る希の顔を見て、そしてもう一度、円の方を見た。
「コウ様、私と希はどこまでも、コウ様について参ります」
耳元でささやく、声が湿った。
頭に置いていた手を布団の中に入れると下腹部が熱く潤っている。
「希はもう起きないだろう。今日は僕の上に乗せてやろう。おいで」
そっと抱き寄せると、唇を噛んで泣きそうな笑顔をみせた。そして、掛け布団に春の冷気が入らないよう、身体を密着させながらそろりと重ねてきた。希の寝息を気遣うように、円の豊かな茂みが擦れる音だけが、寝室に小さく響いた。
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