其の参  御蔭 髙 (Ⅲ)

文字数 1,915文字

「それは、『捨て目が利く』ということにも関係しているのか?」
「先々週になりますが、板垣さまが初期の癌で入院されたとニュース速報で流れたんは、お耳にはいってますでしょうか」
与党の板垣幹事長は、政治権力という言葉が似合わない、温和で真面目な人である。
直接の面識はないが、政治の中枢にありながら、御蔭の存在や「倶楽部 華夕」の役割に気付いている数少ない人でもある。何度か店に来られ、永井の件に対しての謝罪と反省の意を表すために、独り言のような遠回しのたとえ話をされたと聞いている。
一ヶ月ほど前だったか、その幹事長がガンで緊急入院したというニュースが速報で流れた。次期総理候補の一人と目される人物であり、新聞だけでなくテレビの緊急速報が流れ大きく取り上げられた。一時、政界は騒然となったが、それは人間ドックで運良く初期の癌が見つかったためとわかり、簡単なカテーテル手術で五日ほど入院しただけで、元気に復帰された。
「それを最初に見つけたんは、希です」

「どういうこと?」
幹事長が二度目に来店された時、胃の後ろのあたりの背中を、何度か拳でグリグリと押すような動きをしていたという。それが希のアンテナがひっかかった。
「板垣先生、ちょっとお疲れやないんですか?」
希がそう聞くまで、そのような仕草をしていることに、幹事長本人も秘書たちも気が付かなかったらしい。そして「日本の将来に必要な方なんですから…」「大切なお体なんですから…」と、珍しく執拗に精密検査を受けることを勧め、本人だけでなく、同席していた三人の秘書や夕にまで指切りをさせたという。
「へぇ、そんなことがあったんや」
「幹事長はお忍びだったので奥のテーブルにご案内して、私がついてました。希が最初からいたわけやないんです。他のお客さまに応対しながらも、店の中すべて、お客さまだけでなく、ホステスやバーテンの加藤さん、私までが何を見て、何を考え、どんな話をして、どう動いてるんか目に入るようです。その中で、誰かひとりでもいつもと違う動きをしたら、彼女のもっている何かしらに引っかかるということやと思います」
「それは良かったな。日本の政(まつりごと)の安定にはまだまだ頑張ってもらわんとあかんお人やから」
「スキルス性の進行の早いものやそうで、半年発見が遅れてたら大変なことになってたそうです。お見舞いは遠慮させてもうたんですが、退院後、東京に戻られる前に、車いすのまんま、お寄りくださいました。中まではお入りにならんと、入り口でご挨拶しただけでしたけど、『おかげさまで、また皆さまのために働かせていただくことができます。ありがとう。ありがとう』と、手をギュッと握っていただきました」
「希は?」
「飛び出してきて、『たいしたことなくて、お元気になられて良かったですよぉ』って、いきなり幹事長の首に抱きついてウルウルしてました。SPの方が止める間ものうて、びっくりしてはりましたけど」と笑った。
政治家の言う、『皆さまのため』と言うのは、本来、国民のためということである。ただ、ここでは、御蔭の力になれることがあれば、何でも言ってほしいという意味の方が強いだろう。「おかげさま」は「御蔭さま」ということだ。それは、まだ希にはわからないが、夕はわかっている。

「でも、それは記憶なんかな。それなら高校の時も成績よかったやろし、もうちょっと英会話も上達してよさそうなもんやけどな?」
「それは単純な記憶力や洞察力いうもんやないと思います。聞いたり教えてもうてできるもんでもありません。恐らく、人それぞれの雰囲気から、わずかな色彩のゆらぎのようなもんが見えんるんやと思います」
「そんなもんかな」
風呂場から、大きな声で「い~ち、に~ぃ、さ~ん」と怜の声が聞こえてくる。
「私は板垣様ご本人を目の前にしてても、そのことに気ぃ付きませんでした」
そう言うと、一度言葉を切った。
「希は、これまで、ご両親の事件に巻き込まれて、なんども精神の限界まで心を絶ってきたんやと思います。それでも捨てんかった、落ちんかった。時々に白刃のような覚悟や凄みというものが透けて見えます。本当にええ勉強をさせてもうてます」
「夕がそう言うなら、まかせても大丈夫そうやな」
ごろりと横になり、膝の間に頭を乗せあまえるように胸元に手をやると、気かん坊の弟をあやすように、僕の髪を指で梳きながら軽い微笑みを返す。
「そう言うたら、この間も帰りの車の中で、『しばらくは『倶楽部 華夕』のままにしときましょ。コウ様にもそう言うてください』って不安げにひっついてきました。『ダメッ』って、鼻つまんどきましたけど…」
そう言って柔和な目で、僕の鼻をやさしくつまんだ。
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