其の拾八  北條 希 (Ⅰ)

文字数 2,410文字

あのクリスマスから早や一ヶ月。一時期は、鬼のような形相をしていたお母さんも、以前の楽しい優しいお母さんに戻って、眠るように穏やかに旅立った。いまはお父さんと二人、天国で楽しく過ごされているだろう。
悪徳政治家の見本のようにお父さんを批判し、私や母までも犯罪者の家族として追い掛け回していた雑誌やテレビ。今では同じ手で政治家や警察、検察の捜査の在り方を叩いている。取材依頼だけでなく、警察検察批判の本を出さないかという出版社や、悲劇のヒロインとして芸能界に復帰しないかというプロダクション、売り出してやると言いたげなテレビ局もある。同様に、永井に阿っていた市会議員からは「父の弔い合戦で市会議員に立候補しないか」という連絡がはいる。不愉快と言うより、此方の方が恥ずかしくなるほどの軽さ、薄さ。
家を明け渡す前の日、お抱えの新聞社をぞろぞろと引き連れて警察と検察の幹部の方が謝罪に来られ、法的にもお父さんの無罪が確定したという報告を受けた。折角なので、がらんとした家の中で、お父さんの部屋のどの柱からぶら下がっていたのか、警察と検察に諮られたという父の無念の遺書と合わせて、その時の状況やその縄の跡を丁寧に淡々と教えてあげた。
「聞くところによると、京都府警さんや京都地検さんでは、仰山の幹部の方が永井の悪行の隠蔽に加担されてたようですね。うちの父が何もしてないいうことも最初からわかってたとか。みなさん、白いもんを黒いようにするんがお得意なようで、同じように、ご自分らのことは、黒いもんでも白いもんにしはるんでしょうね。幇間のみなさんもお追従たいへんですね」
そういうと下を向いて神妙な顔をされていた。両親への回向を受ける気にはならならず、菓子折りらしきものも慇懃無礼にお断りし、お持ち帰りいただいた。おかげで、翌日の新聞紙面には、警察・検察からの謝罪はなかったことになり、マスコミからの取材依頼もパタリと消えた。
実家は取り壊し、そのあとには女性専用のワンルームの賃貸のマンションが建つと聞いている。一本一本の柱から障子や襖、形のない電話番号までが愛おしく、寂しいという言葉では言い表せないけれど、いまはそれで良かったと思っている。

お母さんが亡くなってから、円さまの妹ということで、上京区のマンションに、一緒に住まわせていただいている。目が覚めて「ん? 私はだれ? ここはどこ?」にならなくなったのは、まだ最近のこと。
逆に一ヶ月前までのことが、遠い昔の出来事のような気がする。
葉室先生、サトシさん、そしてコウ様。今でもとらえどころのない人。その時々、また会う人によって言葉遣いや印象、雰囲気がコロコロと変わる。そういえば、一番初めに、お店にきていただいたとき、先生だと気付かなくて、ルノワールさんや印象派について、拙いあやふやな講釈をこれでもかというくらい垂れていた。釈迦に説法とはこれいかに。いまから思い出しても顔から火が出そう。
「もう、この店には戻って来ないから、大切なものはすべて持っていきなさい」
あの日、気絶した永井たちを奥のトイレに押しこめたあと、そう言われ、慌てて準備をした。特別なものは何もなく、これまでのお客様の名刺ホルダーと写真くらい。ここ最近、ずっと一人でお掃除ばかりしてたから、お店はピカピカで、それだけはよかった。その日、活けたお花は、五年間お世話になったこの店へのお礼にと、そのまま置いて行った。
この間、末吉町の「プロムナード」の入ったビルの前を通ると、もう次の新しい名前の看板がでていた。お父さんが逮捕され、お母さんが病気になって、よくわからないまま無我夢中で始めたプロムナード。最初は、水商売に対するイメージも良くなくて、堕ちていくようで、怖くて不安で仕方がなかった。でも、たくさんの人に出会って、たくさんお話しをして、これが自分の天職なんだと思えるようになった。
お迎え、お送りに一日何度も往復した階段。半年に一度、決まったようにネジがぽろりと落ちる入口ドア。高くて二ヶ月買うのを迷ったレザーのソファ。そのまま居ぬきで借りて、少しずつお金を貯めて、自分のイメージ通りに改装できたのは、二年目だったかな。
はじめの頃は、お客さんの伝手もコネもなくて、他の店のママさんに睨まれながら、寒空の下で手作りのちらしを一人で必死に配った。年末に突然トイレが壊れて隣りのお店に謝り謝りお借りしたこと、真希杯ゴルフコンペ、常連さんと一緒にバーベキュー大会もした。ユミちゃん、ミカちゃん、ともこさん、お客さんの笑い声、たくさんの思い出が走馬灯のように頭をよぎる。
胸が詰まって、少し涙が出た。
深呼吸をして手を合わせると、また一つ気持ちの整理がついた。

いまは、御蔭の家族のお一人、夕さまの「倶楽部 華夕」でお手伝いをさせていただいている。夕さまは、祇園甲部の伝説の元舞妓さん。
そのお店のことは、違う店の古いママから、祇園町の七不思議のひとつとしてきいたことがあった。私のやっていたスナックとは全く違う、完全会員制で価格設定もない、小さな超高級クラブ。どれだけお金があっても入れない、どうすれば会員になれるのかさえわからない、すべてがベールに包まれた御蔭の出先機関の一つ。
知ってる人は知っている、知らないふりして知っている。でも本当のことはわからない。それが何なのか、いつから存在するのか、何をしようとしているのか。歴史の中をゆらゆらとただよう陽炎のような、風のような存在、それが御蔭。夢なのか現なのか、表なのか裏なのか、光なのか陰なのか、知っている人は誰もいない。
その中にいる私でさえも…。
お客様は大きな会社の社長さんやお茶お花の家元さん、人間国宝さんなど肩書だけでなく、人間的にも一流の人ばかり。それでも普通のクラブと変わらず、穏やかにお酒を酌み交わしながら、世間話に花を咲かせている。
その種が今日もふわふわと飛んでいる。
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