其の壱  御蔭 高 (Ⅰ)

文字数 2,667文字

両親は事故で亡くなった、わたしだけ奇跡的に生き残った。
二歳になる前に、母方の祖父である先代の御蔭家の当主に引き取られた。
そうとだけ聞かされている。どのような事故だったのかは知らない。記憶もない。
実際に育ててくれたのは、御蔭家の家令である篠崎玄とその妻の福。かれらを「じじ、ばば」と呼び、京都市内中心部にある家で一緒に暮らした。
その跡地に、いま暮らしているマンションが建っている。
祖父のことは、子供の頃はお爺さま。いまは「先代」と呼ぶ。名前で呼ばないのは、同じ諱を継いでいるからだ。御蔭当主は、代々 高久(タカヒサ)を継ぎ、「高(コウ)」と呼ばれる。じじもばばも、本当の孫のように慈しみ可愛がってくれ、玄と福の子供である陣、夕もいたため、両親のいない境遇を寂しいと感じたことはない。忙しい智も、日本にいるときは運動会や参観日に合わせて来てくれた。
与えられたのは深い愛情だけではない。ものごころをつく前から、体術や棒術、忍術を含めた古武道、香道(薬道含む)や茶道のほか、我が家に伝わる様々な伝承や技術について叩き込まれた。孤独を感じる暇さえなかったと言ったほうがいいだろうか。
先代とは、週に一度、決められた日に差し向かい、「勉強は頑張っていますか」「はい」、「稽古は厳しいですか」「はい」といった会話をする程度。叱られたことはもちろん、荒げた声を聞いたこともない。ただその身体からは、世の中の流れや歪みを超越したあたたかな真白の光が放たれ、その存在自体が威厳だった。
月に一度は、合わせて日本舞踊や体術、棒術の稽古を披露した。子供だから、上手くやらなければという緊張も媚もない。それでも、じじとばばに恥をかかせてはならないという思いだけはあった。二人だけでなく、周りにいるすべての人が、僕を育てることだけに、全身全霊を注いでいるということを小さいながらも感じていた。

葉室聡史は仮の名というよりも、社会的な名前、戸籍としての名である。日本では運転免許証やパスポートもあるし、マンション住民票もおいてある。小学校から大学まで、それぞれに友人がおり、彼らはその名を呼ぶ。
東京大学に進学し、戻って二年だけ京都に暮らしたが、映画の勉強と仕事のためにアメリカに居を移した。映画の最先端に身を置くことで、小さな仕草が人の記憶や思考に与える心理学的な影響、CGやAIを使った映像加工、特殊メイクなどを学んだ。御蔭の家に伝わる技術や伝承の中にも重なるものがあるが、ブラッシュアップされ、その幅は広がった。

じじの玄は、渡米から五年目に、八五歳で亡くなった。
智が、六十歳でこの世を去ったのが、八年目。
そして一〇年目に先代である祖父が、九二歳で亡くなった。
【当主は京都に住まう】 
それは御蔭家の唯一の掟である。
先代は、九〇歳を超えてから、何度か胸をトントンとたたくことがあったらしい。前の日まで何事もなく生活していたが、ある日、ばばがいつもの時間に寝室に向かうと、穏やかな顔で眠ったまま冷たくなっていたという。
机の上には、【福 世話になった。コウに連絡を頼む】との紙が一枚。
それ以外には、遺書も遺言も残されていない。親代わりとなって、厳しく優しくそだててくれたじじ、御蔭の柱であり象徴であった先代。もう会うことも、話すことも笑うこともないと思えば、胸の痛みや寂しさはある。
ただ、人が死ぬのも、木が倒れるのも、星がその命を終え消滅するのも、何もかわらない。エントロピー(原始的排列、運動状態の混沌性)の崩壊と再生の揺らぎである。先代もじじも、非業、無念の死ではなく、それぞれに歴史のうねりの中でその役割と天寿を全うした。それは寿ぐべきことであり、その一生を誇りに思う。

死は、すべての終わりではない。
二年前のある日、突然、アメリカの自宅に、智がひとり訪ねてきた。末期の膵臓がんに侵されていることは伝えられていた。ずいぶんとやせてはいたが、その体から発せられる生気は、いつもと変わらないものだった。
「歴が還るまで生かしていただきました。私には十分すぎる時間でした。これを天が寿ぐ命、天寿天命と名付けた日本の先人の感性に敬意を表します。自然のまま、無理な延命はしないよう伝えてあります」
「そういうものか。円は悲しむだろう」
「胸が痛むのは、愛し愛された証でもあります。わたし同様に、円はたくさんの愛を受けて育ってまいりました。それを御蔭のために、日ノ本のために役立てる日がきっと来るでしょう」
黙ったまま、言葉が紡がれるのを待った。
「このようなことを若(ワカ)に申し上げると、お笑いになるかもしれませんが、実は楽しみでもあるのです。この世はどのような成り立ち、仕組みをしているのかを、これまでそれを知りたいと考えてきました。宇宙とは何か、世界とは何か、霊とは命とは何を意味するのか、憎しみとは、そして愛とは何なのか…」
いつも柔和な笑みをたたえている表情は変わらない。
「漠然とではありますが、それらはすべて物理的なエネルギーであろうということはわかりました。ですから、肉体は滅んでも、愛や恨と呼ばれている強い想いは何らかの形で、この世に残るのでしょう」
そう言うと、視線を外し、遠い目をして言葉を切った。
「ただ、それらを繋いでいる、縁(えにし)や業(ごう)というものの正体がどうしてもつかみきれないのです。それはエネルギーの種類の親和性に関わるものか、それとも同様に質量をもった物理的なものなのか」
子供の頃から智にはたくさんのことを教わった。世界の話、宇宙の話、命の話、歴史の話、どのような質問をしても、子供には子供の言葉で、大人になってからは大人の話として、常にわかりやすく伝えてくれた。
「わかれば、教えてくれるか?」
「摂理として直接的にお教えすることは難しいようです。しかし、いつの日か、必ず、全霊をかけて、お伝えすることをお約束いたします」
その言葉を、無理を押して伝えに来てくれたのだと思う。
「山の向こうには玄さまもおられます。協力すればできないことはないはずです」
「それを間違いなく受け取れるかどうかは、僕の器量次第ということになる」
「御意に御座います」
智は、満足したように微笑むと、ゆっくりと息を吐いた。
「これからも、よろしく頼む」
そう言って手を差し出すと、細くなった手が僕を包んだ。
それから、一〇日後の早朝、智がこの世を去ったという連絡が入った。
電話が鳴る前に、そのことはわかっていた。そして、そのときに、「御蔭を継ぐ日が近い」という現実が、漠然から判然へと変わった。
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