其の参  御蔭 高 (Ⅲ)

文字数 2,052文字

低い台にのって、一番上の棚の奥から出してきたのは、ニッカウヰスキーの創業者の名前を冠したピュアモルトの21年物。そっとラベルを見せると、慣れた手つきで封を切る。
高一の彼女をモデルに人物画のデッサンの授業をしたことがある。「春の憂い」と名付けた青を基調とした油絵に仕上げ、市の展覧会に出品した。大きなものではないが、何か賞をもらったと記憶している。その年の終わりに、高校の美術講師を辞してアメリカに行くと聞いて、白いフエルトで手縫いのお守りを作り渡してくれた。その一六歳の左人差し指には、作成過程で針を刺したのか絆創膏が貼ってあったのを思い出す。そのお守りは無事に役目を果たし、いまもその三号サイズの絵と一緒に、マンションの書斎に下げられている。
「水割りで宜しいですか?」
「うん、それで」
そう言うと、二人分をステアし、「おおきに、真希です…」と杯をカチリと合わせた。
「あら、初めて飲みましたけど、なかなか美味しいですね」
年齢は、指先に表れるという。もちろんそこに針の傷跡は残っていない。天真爛漫だった女子高生が、この一〇年、絶望の淵に立たされながら、この白く細い指でどれほどの荒い波をかいてきたのだろう。
「どうかされましたか?」
「いや、ママは、えらいべっぴんさんやなと思てね」
「おおきに、仰山の人からそう言うてもうてます。三日で飽きられんようにせんと」
いつもの符牒なのか、冗談めかせて唇をとがらせると、ほのかに白檀の香をまとわせた名刺をくれた。
《プロムナード まき》
「お名前をお聞きするのを忘れていました。何とお呼びすればよろしいですか?」
「友だちには、『サトシ』って呼ばれてる」
「では、私も『サトシさま』とお呼びしてもいいですか?」
「もちろん。『まき』いうのはどんな字を書くの?」
「真実の真に、希望の上の方の漢字を合わせて、真希です」
そう言って、細い指先をしなやかに、ゆったりと空に滑らせていく。
「まれと言う字やね。よろしく」
そう言うと、もう一度、杯を合わせた。

「『プロムナード』は、お店の雰囲気にぴったりの可愛らしい名前やね」
「ありがとうございます。ルノワールさんの絵から拝借させいただいたんです。使わしてもろてええんか、ご本人さんに承諾とってないんですけどね」
「帽子の男の子が、白いドレスの女の子に手を差し伸べている絵やったかな。」
そう言葉を返すと、弾けるように顔が明るくなる。
「ロスの美術館で見たことがある。白いドレスがキラキラして、手をとった男の子の淡い恋心が見えてくるような素敵な絵やった。看板を見た時に思い出して、寄せてもろた」
「そうでしたか。ありがとうございます。ルノアールさまさまですね。でも白状すると、私はまだ本物をみたことがないんです。いいなぁ、私も一度でいいから見てみたかったなぁ…」
もう自分は目にすることはもうないという覚悟が語尾に表れる。本人も気づいていないのか、やわらかな口調で二人の距離を縮め、拗ねたように唇をすぼめて笑うと、ゆっくりと席を立った。
表のネオンのコンセントを抜き、入り口の鍵を閉める。
「もう、今日は閉店?」
「いえ、お客様、おひとり様で貸し切りです。ですから、どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」
先の二人のことは忘れてしまいたいのだろう。いそいそと戻ってくると、ルノワールの話を楽しそうに継いだ。
「ルノワールさんってね、晩年は重いリウマチになってしまわはって、それでも、その痛みに耐えながら、仰山の名作を描き続けはったんですよ…」
「へぇ、そうなんや。ママはもの知りやなぁ」
高校生の頃に、その話をした教師本人を前に、同じ話を繰り返していると知れば、どんな顔をするだろう。当時の葉室は、芸術家の卵といった風体で、無精ひげをはやした、口数の少ない線の細い男である。一〇年経ったというだけでなく、雰囲気やイメージが全く違うため、正対していても、似ているとも思わないだろう。
整えられた眉、薄くひかれた紅、少しシャープになった顎のライン、細くてしなやかな柳腰から続く、流れるようななだらかなカーブ。ピエール・オーギュスト・ルノワール、印象派、サロン、マネやモネ、キラキラとした目ではしゃぐ姿に、制服姿の面影が交差しては離れていく。

時計を見ると、円や夕に約束した時間を超えていた。
「今日は楽しかった。そろそろおいとまするかな」
立ち上がって、胸のポケットから財布を取り出そうとすると、その手を止めるように指を重ねてくる。そのまま、空いた左手で抱き寄せると、顎先に寄った小さな顔が、枝垂れかかった。
「そのボトルは、僕の名前で残しておいてもらおうかな。そうしたら、今年中にまだ何回か来られるし」
屈むようにしてほんのりと染まったチークを合わせると、テーブルに揃えて置く。
「ほんまにまたお越しいただけますか?」
「もちろん」
「きっと、約束ですよ」
目の高さに小さく突き出した小指を強く絡めた。
「ありがとうございました」
そう言ったあと、背伸びをして抱きついたときに、こぼれた涙が頬に触れた。
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