其の七  葉室 聡志 (Ⅲ)

文字数 2,755文字

「おっしゃられていることは、たいへんよくわかります。その通りだと思います。私もある方に表面的な社会の常識にとらわれてはいけない、自我の殻に閉じこもってはいけないとお諭しいただいたことがあります。それが自分の成長を妨げていると…」
「ほぉ、自我の殻ですか、哲学的な言葉ですね」
「はい。最近、自我の殻というものは、偏見や先入観とは切り離せないものではないかと感じています。正常性バイアスというべきでしょうか。葉室さんは自我や殻というものをどのように捉えられていますか?」
資料を手に持ったまま、その目をじっと見つめ、考えている素振りを見せる。
頸を左に傾げ、「偶然というか、先ほどの電話でも同じような話をしていたところなんですよ…」と独り言のようにつぶやきながら視線を外し、今度は真面目な顔でもう一度小鬢のあたりを掻く。
手にした資料をもう一度テーブルの上に戻し、正面に向き直る。
「ご存じだと思いますが、人間の行動の九〇%は無意識の中で行われています。それは思考も同じです。私たちが自分の性格として覚知しているのは、深層のなかで人格を支えている太く長い柱の表層部分でしかありません。いわれたバイアスもしかり、社会常識も同じです。先ほどの例で言えば、同じ日本人でも百年、千年前の人間と私たちとでは、生命や男女の性差、セックスに対する認識は根本から違います。現代においても、それは国柄や宗教などによっても変わるものです。徳川将軍やイスラムの王族に、一夫一婦制や男女平等、LGBTの正当性を説いても意味がありません。現代日本の倫理観を理解しないからと言って、彼らが非人道的だということにもならない」
ゆっくり、穏やかに、一つ一つの言葉、センテンスをかむようにして話す。日本語も英語も、彼女の父親がそうであったように。
「確かに。父の仕事の都合で、海外での生活が長かったのですが、それぞれの言語や歴史によって、また宗教や種族によって、常識というよりも無意識そのものが違うということを何度も経験してきました。同じブルーと言っても見ている空の色が違うかのような。それにも、いわゆる『人間の殻』というものが関係しているのでしょうか」
「『殻をやぶる』と『壁を超える』という二つの慣用句は、混同して使われていますが、違うものです。壁というのは自分の目的や夢をかなえるために障害となるものの外敵の総称です。これに対して殻というのは、自分のいる世界、内なる世界観のことです。ですから今、隣にいる人も、同じ世界にいるわけではありません。人それぞれに、その目に映っているもの、聞こえているもの、その情報に対する感情、反応は違います。殻とは自分の世界、自我を投影しているスクリーンのようなものかもしれません」
「どこか量子論の話と似ているでしょうか。パラレルワールドは、日常の重なりの中にあり、それぞれの個々人の観測の違いによって、いくつもの世界にわかれていくと聞いたことがあります。個々人の世界観によってそれぞれの世界が作られ、同時に観察者としての自我によって殻が形成されていくということでしょうか」
「量子の世界は、サイエンスフィクションとしての広がりだけでなく、たくさんの疑問と新しい視点を与えてくれます。数千年前に「諸法無我」という言葉で世界を表した仏教にも、「我思う故に我あり」と観念から世界をとらえたデカルトの慧眼にも、あらためて頭が下がります。それは映画や演劇を作るうえでも重要な課題の一つです」
理知的な深みのある眸子が本当に父親によく似ている。こうして二人でたくさん語り合合った。わたしが話をしているのか、それとも彼が話をしているのか、もう彼とはこうして差し向って話をすることができないという微かな痛みとともに、懐かしく思い出す。
「例えば、映画の世界で、一度の主演で百万ドルを稼ぐセレブな女優が、貧しい農婦を演じることがありますが、卓越した演技力をもってしても、それだけで人の心を動かすことはできない。そのままでは、彼女もまたオーディエンスでしかないからです。特に、ノンフィクションの映画を作るときは、その部分に非常に力を入れます。『その人物になりきる』というのは衣装や演技ではなく、無意識の中にある空のブルーまでも変える必要があるからです」
「名優と呼ばれる人の中には、ドラッグに溺れたり、精神を病んでしまったりする人も多いと聞きますが、そのことも関係しているのでしょうか」
「お気付きの通り、ここで言う殻とはすなわち自我のことだといってもいい。『色々な人を演じられて楽しい』という俳優はまだ駆け出しだと言われています。それは映画を作っているとよくわかります。貧弱な自分の妄想の中にある役柄のイメージをなぞっているにすぎないからです。名優は王女から召使まで、神父から悪魔まで、様々な世界の住人になることで、その本当の姿を内側から見た時に自我が崩壊するのかもしれません。実際、心理的なカウンセリングを受けている人は多い。言葉通り命がけの仕事です」
そういうと、会話の色を変えるように、一呼吸置いた。
「ただ、それは良い映画を作ったり、演技をする上ではとても重要ですが、実生活においては、あまり役に立ちません。現代社会もまた特殊な世界なのです。それが不安定な虚構だったとしても、それぞれの時代・国の常識やモラルの中にいることが、安定した社会生活の基礎なのです。いちいち、突っかかっていては疲れて仕方がない。病気になってしまいます。いわゆる心理学でいうバイアスはその安定に寄与しています。その自我を失わない範囲で、他の価値や世界も見てみてみたいという好奇心を満たすために、ドラマや映画はあるのです」
小さな頷きとともにしばらくの沈黙のあと、彼女は長く息を吐いた。秋空のグラデーションも、少しずつ陰影が増してきている。重ねた膝のずれが少しずつ広がり、白い腿の影に静脈が浮いてくる。
「葉室さんが仰っていることはよくわかります。わたしも映画をたくさんみますし、様々な世界、世界観が広がっているということは頭の中では理解しているつもりです。ただ、それでは、どこか足りないような気もしているのです。今日、初めてお話しさせていただいた方にこんなお話をして、みっともない、はしたないと思われるかもしれませんが、危険があるとしても、その殻を破ってみたい、これまでの自分の世界を打ち破ってみたいと思っているんです」
父親によく似た、知的な目が覚悟とともにまっすぐにこちらを向いている。
小さく頭を下げると、胸元から白いレースの下着が透けて見える。記憶の中にあるクリっとした目の女の子が、ひらひらとしたドレスのスカートを手で横に広げ、足を交差させて、おしゃまに可愛くおじぎをした。

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