其の弐  御蔭 髙 (Ⅱ)

文字数 2,131文字

「木村の家族はどうしてる?」
木村が出頭する前に、泣きながら電話をしていた先が妻であることはわかっていた。
保身のためなのか、こうなることを予見していたのか、彼はすべての犯罪の証拠を、みずからの日記とともに銀行の貸金庫に保管していた。永井と赤沢との関係もある程度までは調べており、そのすべてを告白したのち拘置所内で首をくくった。妻や二人の子供にまで危害が及ばないよう、こちらの方で保護していると彼に伝えた、その翌日のことだった。
「ひと月ほどは、家の周りをヤクザ者がうろうろしてたようですけど、こちらの意思が伝わったんか、もう手出しはせんようです。新しい名前で北陸のある街で暮らしています。報告によれば、妻女は気持ちが不安定な日が続いたようですけど、先日、希が行って『ご家族には何一つ責任はない。恨んでもいない。すべて忘れて新しい生活を』と話をしてくれたんで、ちょっと落ち着いたようです」

戸籍や住民票を操作することは、単に制度上、書類上のことでさほど難しくはない。
しかし、新しい人間になって生きていくということはそう容易ではない。楽しい思い出と、哀しい記憶、忌まわしい歴史が、その人格・自我と一体的なものだからだ。美容整形で目鼻立ちを変えることと、性格を変えることのどちらが難しいか…、その答えを考えれば想像がつくだろう。それは思春期にある二人の娘のこれからの成長にも、大きく影響を及ぼすことになる。
「そう言うたら、最近、あまり店には出てないようやな」
「はい、希に任せて、楽さしてもうてます」
「どう希は? 『倶楽部 華夕』のあとは無事に継げそうかな?」
「正直申せば、嬉しい反面、悔しい気ぃも致しますが、クラブのママとしての器は、私は、ほんに希の足元にも及びません」
そう言うと、笑顔のなかの目の奥がすーっと深いものに変わった。

「もう、ずいぶん前になります。希のお父さま、佐倉市議には、当時の市長とご一緒に、何度かお店にお越しいただいたことがあります。それから数年後にあのようなことになって、その娘さんが祇園でスナックを始められるらしいと噂になりました。もちろん、その大半はいけずな、口さがないもんでした。水商売いうものは、甘う見られがちですが、どないに別嬪さんでも、お口が上手でもそれだけでやっていけるほど楽なもんやありません。ママとして店をまわしていくことやなんて、後ろ盾も経験もない二十歳そこそこの御嬢さんにできるようなことではあらしません」
庭から吹く初夏の風を待つように、もう一度言葉を区切った。
「それでも、希の『プロムナード』は、永井達に目をつけられるまで、ずっと流行ってました。この祇園町にも長く冷たい不景気の風が吹いて、ベテランママの老舗クラブが次々とお店を閉める中でもです」
確かに、太い後ろ盾がないかぎり、「水もの」と揶揄される不安定な商売を、移ろいやすいネオンの渦の中で浮き沈みなく持続的に成功させることは不可能に近い。希はマイナスからのスタート。男から見れば「よく頑張った」「根性がある」程度で済ませるところだが、その道のプロから見ればありえないことなのかもしれない。
「いま、倶楽部のホステスは六人おります。他の店の倍以上のお手当をしておりますから、どの子も祇園町だけやのうて、銀座、新地どこへだしても恥ずかしゅうない超一流のプロのホステスです。表にはせんでも、それぞれ女としての意地もプライドもあります。そやないと一流にはなれしません。その中でも希は一番若うて、私も『新しいホステスさん』としか紹介してません。それでもひと月ほどで、わたしを含め、すべてのホステスが希の言う通りにしてます」
夕がそう言うのだから、嘘や誇張はないだろう。だが正直言ってピンとこない。家ではいつも優秀な姉の円にひっついている少し頼りない可愛い妹。目を欺くほどの高い技術力で演技をしているようにも見えないし、そうする必要もない。
「希の持っている才とはどのようなものか」
そう問うと、頭を傾げて少しの間考えた。
「どうご説明したらええもんか、上手に言えませんけど、言葉に置き直したら、類希なる記憶力と観察力、洞察力、あとは『捨て目が利く』いうことでしょうか」
「記憶力とは」
「ホステスに、記憶力は大切です。お客様のお名前やお仕事、役職名、最前どんなお話したかなど、基本的なことはすべて覚えておかんと仕事になりません。プロのホステスであれば、それは当然のことです。ただ、希の記憶力は人並み外れてるだけやのうて、細密な観察力、深い洞察力と繋がってます。一度お越しになると、その方の性格や性質、物事の見方や考え方から小さな癖まで、ぜんぶがするする頭の中に入るようです。もちろん女性の好みもです。華夕は指名制ではありませんし、そない無粋なお客様はおられません。それでも、それぞれにお好みの会話、雰囲気いうものがあります。希は自分が新人さんのヘルプに徹することで、川が流れるように上手に先輩のホステスを動かしてます。そやし、希の言う通りにしたら、お店全体がとてもしっくりしていて、とても心地ええんです。私はお店を任せていただいて、もうすぐ一五年になりますが、それでも希と同じようにはできません」
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