其の一  御蔭 髙 (Ⅰ)

文字数 1,838文字

玄関に小さな履物が置いてある。
奥の稽古場から、コロコロと怜の丸い笑い声が聞こえる。
「コウ様、お邪魔致しております」
「今日は、お稽古の日やったか」
「はい」
裾を払って畳の間に腰を下ろすと、夕と二人並んで頭を下げる。
「怜、きばってるか?」
「はい、福さまには褒めていただきました。でも、お母さまには叩かれてばかりです」
かわいく肩をすくめて笑いながら、夕を見上げペロッと舌をだす。
夕は、今なお京舞の名手として名が通っているが、初めの師は養母である福だ。
「トン ツー トン、爪先上げて、扇が曲がってる」
潰れた血マメで足袋を赤く染め、くちびるをかみしめながら廻っている姿が、今なおクリアな映像として残っている。夕は一五歳で祇園甲部の置屋に上がったため一二、一三の頃、それを柱に半分隠れて見ているのは、ものごころがつき始めたまだ三つ、四つの時の記憶だろう。

「怜、ちょっと、こっちにおいで」
手を引いて畳の間から段を跨ぎ、檜が敷き詰められた六畳ほどの舞台にあがる。
「よう見てみ、真ん中のこのへんだけ、窪んで黒うなってるやろ」
「はい」
「なんでかわかるか」
小さな手のひらで、しばらくその場所をさすっていたが、「わかりません」とブルブルと首を横に振る。
「これはな、夕や福、福のまたその上のお母さんやおばあさんが今の怜と同じように、叱られて叩かれながら、稽古して稽古して、足のまめがつぶれた時の血や汗や涙がしみ込んでできた色や。この家の柱や床には、そうして一つひとつにみんなの命や想いが、仰山詰まってるんや」
そう言うと、目を見開いて福を、夕を、そして僕を見た。それからもう一度床に目を落し、その床のシミに耳を当て、額を当て、頬を当てて、愛おしそうにまるく撫でた。
「怜は、御蔭のものとして、これからその想いや心を継いでいくんや。この舞台にいると、昔むかしのおじいちゃんもおばあちゃんも、みんな『怜がんばれ、負けるな』って応援してくれてはるのが聞こえるやろ。そやし叩かれても叱られても、心や身体が縮こまらんように、お空に向かって、一手一指一足、心を込めて舞え。僕は、福や夕と同じように、怜のことを頼りにしてるよ」
頭を撫でると、背筋を伸ばし、クリッとした大きな眼を、こぼれそうな涙で一層キラキラさせながら、「はい」と大きく返事をした。
「せっかくコウ様が来られたんやし、今日までのお稽古をみていただこか」
福はそう促すと、右に置かれた三味線を手にした。
怜を舞台に残し、締太鼓の夕とのあいだに腰を下ろす。
夕の小さく吐き出す息とともに、気がおさまるのをしずかに待つ。
「よぅ」という甲高い声を合図に、舞台の上で平伏した小さな怜から凛とした生気が放射され、それが部屋全体を覆った。

「もっとおしゃまな可愛い子供らしい舞かと思てた。トンと置いた足の色気に、ドキっとしたよ」
「うちも驚きました。さいぜんまでとはえろう違いました」
「子供いうのは、人智を通り越した不思議なもんやな。ほんまにいろんな声が聞こえるのやろか。でも、あまり厳しくなりすぎんように、陣にも同じことを言うたけど」
「福さまからも、そう言われております」
「そういうばばも、稽古の時は、相当きつかったけどな。いつもきれいで優しい夕姉ちゃんが、ここで踊ってる時だけは怖かったよ」
そう言うと、少し照れたようにいつも僕が隠れて見ていた柱に目を向けた。
「置屋の準備は進んでるか?」
置屋というのは、舞妓や芸妓を御茶屋に派遣するモデルクラブのようなものだろうか。見習いや舞妓を住まわせ、一流の芸舞妓になるよう舞や鳴り物を仕込む。現在、廃業状態にある祇園を代表する置屋の名跡を、夕に引き受けてもらえないかという話は数年前からあったという。倶楽部のこともあり、僕が戻ってからという先代の意思もあり、そのままになっていたが、これを希に任せることで、華夕が置屋を引き継ぐことになった。
「しきたりの厳しい世界ですけど、主だったとこへのご挨拶は滞りのう」
「あちらさんからのお話やし、問題はないと思うけど、ただでさえ夕は有名人やし、目立たんよう、急がんよう、ゆっくりとな」
「承知しております」
優しそうな目元、楚々とした振る舞い、洗練された美しさと気品。匂い立つような艶やかさ。『臈たけた』と言う言葉は夕のためにあると言っても良い。一五の時、僕に初めて女性というものの素晴らしさを教えてくれたのも夕だ。御蔭の男は、一五歳になる前の日から、ひと月をかけて女を教えられる。皆は来年の春に一五になる。

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