33 死の車輪
文字数 7,551文字
遠くから徐々にバイクの音が近付いてきて、公園の隅の植込 みの陰で停車した。テンシュテットは急いでヘルメットを脱ぎ、それを小脇に抱えると、あたりを見回しながら屋台の方へ向かう。
「お~い、テン!」ベームが大きな手を突き挙げてぶんぶんと振る。「こっちだ、こっち」
「遅くなってごめん」息を弾ませてテンシュテットは詫びる。「間に合ってよかった。もうみんな帰っちゃったんじゃないかと思ったよ」
「んなわけないでしょ」例の酩酊 した隊員が、その減らず口を再び無思慮に開く。「夜はまだまだこれからじゃないすか」
「……そうか」ふっと苦笑して、テンシュテットは椅子に座った。「美味そうだなぁ。これ、食べてもいいか?」
「食え、食え」皿をごりごりと押しやって、ベームが気前よく言う。
この時わたしの頭のなかでは、先ほど耳にした「おたくの隊長」という言葉が引っ掛かっていた。
あの酔っ払いにとっても、今はテンシュテットこそが自分の部隊の隊長であるはずなのに、まるでそれをそれとして認めはしないとでも言いたげな含みがあった。
ふと、わたしは思いだす。
いちばん最初に、ルータが彼らの姿を目撃した時の現場の状況を。
レーヴェンイェルムは、銃の扱いをとちった若い隊員のことを「テンシュテットの部隊の者」と呼んでいたという。推察するに、今回特別に編成されたという妖精郷探索隊の面々は、平時は別々の部隊に所属している兵士たちなのだろう。そしてその各隊から隊長と選 り抜きの隊員数名が召集されて、この現在の構成になっているのだ。思い返してみても、これまで彼らを見かけるたびに、そういった異種混合の雰囲気がたしかに見受けられていた。というか、今まさにそれが顕著だ。彼らは連結した長いテーブルの左右両側に分かれる形で、それぞれが元来所属する部隊の僚友どうしで固まっているように見える。つまりテンシュテット側とレーヴェンイェルム側とに、一隊がきっちり二分されている状況。そしてその両陣営のあいだを橋渡しする位置に、ドノヴァン・ベームが一人どんと座 しているという具合だ。まるで巨大な文鎮 か、あるいは碇 のように。
「なんだよおまえ、よく食うなぁ」ベームが呆れて笑う。「ルチアちゃんの学友家族会にお呼ばれしたっていうから、小洒落 た店でさぞかし豪華なディナーを堪能してくるものと思ってたが」
「いや、店はもちろん良いところだったよ」もぐもぐと口を動かしながらテンシュテットは言う。「でもやっぱりどうも、ああいう集まりは緊張しちゃってね」
「あら。案外
卓上でワインの瓶に枝垂 れかかるように座るアトマの女性が、呂律の回らない舌でからかった。
「それで、ルチアちゃんは元気にしてたか?」ベームがグラスを傾けつつたずねる。
「元気も元気。この街へ来てからますます調子付いてるみたいだよ、あいつ」
「はは、そいつぁいい。青春だなぁ」
「中佐の妹さん、いつまでこっちにいるんれす」
さらにグラスを重ねてさらに酔いの進んだ先の男が、歯の噛み合わせ方を忘れてしまったみたいにだらしない口調で絡む。
相手を一瞬じっと見据えて、テンシュテットはこたえる。
「来月までだね。うまくいけば、年明けの合同軍事演習が終わった後、僕らとほぼおなじ時期に帰国という運びになりそうだ。……というか、きみ。そんなに呑んで平気か?」
「なに言ってんれす」
嘲笑混じりに声を荒げて、男は勢いよく身を乗り出す。そしてワインの瓶をつかみ、性懲 りもなくグラスを満たす。寄りかかっていたものが取り去られたことで、アトマの女性が悲鳴を上げて倒れ込む。
「もうっ! なにするのよ」
しかし男はそちらに目もくれずグラスを掲げ、唇にべったりと押し当てて一気に煽る。そして熱い息を吐く。
「留学。りゅう、がく。いいよなぁ。羨ましいったらない。……あのねぇ、俺も、軍に志願する前にはね、そういうのにずいぶん憧れたもんだったれす」
額に手のひらを当てて、ベームがやれやれとかぶりを振る。しかし男はまるで意に介すことなくまくしたてる。
「あ~、ちくしょう。俺んちにも金と家柄があったらなぁ。そしたらもっと人生違ってたでしょうよ。そしたらあんな、あんなくそったれの森なんかをうろつくこともなく、今頃はどっかの小洒落た店で――」
「もうよせ」テンシュテットが冷静に一声発した。嫌悪も怒気も込めず、ただ純粋にたしなめることだけを目的とした語気だった。「その辺にしとくんだね。明日に響くよ」
「かまやしない!」
言い返す男の声は烈 しく震えた。わたしたちのいる場所からはよく見えなかったけれど、たぶん隣席の誰かに腕か手を抑えられるかしたのだろう。それを彼は力任せに振り解 いた。でもその腕か手は、続け様に別の手に封じられることになった。熊のように大きく剛健な手に。
「呆れたもんだな、まったく」ベームが言い放つ。「上官の寛大さに甘えるのもほどほどにしろよ。さっきおまえが口にした言葉は取り消せ」
「ことば?」男は首をひねる。まるで締 めが緩くなってぐらつく螺子 みたいに。
「とぼけるな。おれはテンのように甘くないぞ。人が己の努力と決意によって選び取った道を、財力や家名で買収したかのように言ったことだ」
ぱちぱちと両目をしばたたかせて、男はひるむことなく笑顔を浮かべる。
「え? そうじゃないんすか?」
「おまえ……」
「だって、ほんとのことじゃないですか」またもや手を強引に払って、男は唾を飛ばす。「結局、世のなか金じゃないですか。そして恵まれた環境や、容姿や、才能じゃないですか。どこ行ったってそうだ。軍隊だけは違うだろうと思って来てみりゃ、やっぱりここも余所 となんっにも変わらねぇ。人目につく仕事や、派手な成果の挙がりそうな任務、ちやほやされる立場や階級は、なにもかも良家出身の連中に根こそぎ持っていかれちまう。俺らみたいな貧しい平民出 は、いつまでたってもこき使われるだけだ。それに……」男はここで喉がひっくり返るようなしゃっくりをした。「それに、俺が、金がなくて留学に行かしてもらえなかったのも、金がなくて良い学校に入れなかったのも、金がなくて女に振られちまったのも、全部本当のことですよ。持つ者に持たざる者の気持ちなんか、わかるわけがないでしょうが。生まれた時からなんでも思うがまま暮らしてきた人らが、なんにも思いどおりにいかない人間の辛さや惨めさを、わかるわけがないんだ」
ベームはもうため息すらつかず、これ以上は不味くて呑めないといったふうにグラスを手の甲で押しのけた。そして酔漢とおなじ側の席で一人静かに呑んでいる男に呼びかけた。
「ヤッシャ、おまえんとこの部下だろ。なんとか言ってやってくれ。おれはもう喋る気もしない」
「なんとかってなんだ」レーヴェンイェルムはそっとグラスを置き、平板な目つきでベームを見やる。「私になにを期待している」
「この野郎……」ベームはにやりと笑う。「しらばっくれやがって。部下の失言の責ってのは、上官が――」
「現在は国王陛下直々の命によって平時の部隊より当探索隊の任務を優先するよう仰せつかっている」遮って彼は述べる。まるで文書でも読み上げるようにすらすらと。「よって、この者の上官は今は私ではない」
テーブルを囲む全員が、ぴたりと身動きを止めるのが感じられた。
息さえも潜めて、みなが一人の青年に視線を集中させているようだ。
けれど、テンシュテットはなにも言わない。
たぶん、彼はなにか言うべきだったのだろう。
でも彼は、敢 えて口をつぐんだ。
静やかな手つきでワイングラスの脚を摘まみ、それに水差しから冷水をほんの少しだけ注いで、味わうようにゆっくりと呑み込んだ。それだけだった。
うん、それが賢明だね、とわたしも思う。今はなにを言ったところで、有益で建設的な会話は成立しない。正気を失うことでしか自分の本音や不満を言葉にできない人間が相手では、絶対にまともな議論は成立しない。
沈黙を破ったのは、また意外にも、レーヴェンイェルムだった。
「……それに、これはまぁ、一つの個人的な意見だがね。先ほどこの者が語ったことは、ある程度までは真実なのではないかな」
「なんだよそれ」すかさずベームが食ってかかる。「おまえ、酔ってるのか」
「別に酔ってなどいない」
「酔ってるさ」その広大な背中をぐっと反らせて、ベームは男たちを見おろす。「冗談も大概にしろよ、おまえら。テンやルチアちゃんがどんなにひたむきに頑張ってきたか、おれはずっと近くで見てきた。みんなだって、それくらい知ってるだろ」
「私はここにいる誰よりも貧しい家の出身だ」しかし取り合わず、レーヴェンイェルムは淡然 と口を開く。「そして誰よりも早く軍に入り、誰よりも多くの紛争地に赴き、誰よりも多くの戦果を挙げてきた。しかしいまだに私は少佐止 まりだし、公平とは言いがたい処遇しか受けられない小部隊を任されるのみだ。正規軍の部隊を率いているとはいえ、家柄と血筋が支配する騎士団上層への推挙に名を挙げられたことは一度もないし、みずから立候補する権利さえ与えられない。〈長老連 〉に至っては、下層出身者などその目に映りさえしない様子だ。さて――」さらりと、彼は自分の面 にかかる銀髪を掻き上げた。「私が言っていることが、理解してもらえるだろうか」
「どぉなんすか、レノックス中佐」例の酔いどれがいきり立った。思いがけず虎の威を借りられたことで、その声と表情には勝利感が漲 っている。「こういうことなんですよ。もう、ほんっとぉに」
「……人はそれぞれに生き辛さを抱えているものだよ」詩の一節でも詠むように、テンシュテットがつぶやいた。「どんな境遇にある者にも、その当人にしか知りえない苦しみがある」
「そうだね」レーヴェンイェルムが微笑する。「辛さ、苦しさ、哀しさ、悔しさ、誰もがみな抱えている。だが、不当に苦渋を舐 めさせられるという屈辱的な体験を一度も経験することなく一生を送る者も、なかにはいるだろうね」
「あ~あ~……みっともない」溜め込んでいた嘆息をどっと放出して、ベームは飲みかけのグラスをやけっぱちに空にした。「士気低下もいいところだな。この途方もない馬鹿げた任務も、やっとこさ大詰めに差し掛かろうかというところだってのに。……みんな、今夜はもうお開きにしよう。宿に帰るなりどこかで飲み直すなり、好きにしてくれ」
その一言を受けて、内心は一刻も早くこの場から離れたいと思っていたに違いない隊員たちが、一斉に席を立った。そのなかにはテンシュテットの姿も含まれていた。テーブルに残っているのは、ベームとレーヴェンイェルムとアトマ族の女性、そして悲惨なほど酒に呑まれてしまったあの男だけだ。
見かねた別の隊員が二名、酔いの回った同僚を無理矢理に抱えて立ち上がらせた。
「なんだよ、ちくしょう」唇を歪めて酔っ払いは毒づく。そしてねっとりとした目つきでレーヴェンイェルムを見おろす。「レーヴェンイェルム隊長は、まだ帰んないすか」
「ああ。酒や糧 を残すのは主義ではない」
「じゃあ、俺も付き合いま……」
「おまえは帰れ!」しっしっと乱暴に手を振って、ベームが跳ね除 ける。「まだ歩けるうちに、さっさとベッドに辿り着いちまえ」
「ではお先に失礼します」酔漢を立たせた一人が手早く敬礼をした。「ほら、行くぞ。もういい加減にしろよ」
かくして鼻つまみ者は連れ去られた。上官たちは、しばしその背中を見送った。
「じゃ、僕も行くよ」テンシュテットがヘルメットを抱えながら、残った三人に告げた。
「すまなかったな。酷い思いさせちまって」ベームが力無くかぶりを振る。
青年はほほえみ、首を振る。「なぜきみが謝るの。ま、こんな日もあるよ。……きっとみんな、疲れてるのさ」
こくりとうなずき、ベームは寛容なる隊長の顔を見あげた。
「おやすみ、テン」
「おやすみ」
「じゃあまた明日~」アトマの女性がぺらぺらと手を振った。
レーヴェンイェルムは口を開かない。ただ顎を少し引いただけだった。
わたしたち三人も、男たちの茶番劇を視聴しながら、とうに食事を終えていた。グラスやジョッキも綺麗に空だ。けれどすぐには席を立たなかった。今しばらくのあいだ、周囲の音声を注意深く拾い続けた。
あの酔った男は、大樹の傘から出たあたりで、肩を貸してくれていた同僚たちをぞんざいに払い除けた。
「離せよ。俺はそんなやわじゃねぇったら」男は舌足らずに喚 く。そして突然にたりと笑い、同僚たちにささやきかける。「なぁ、おまえらちょっと付き合えよ。これから俺たちだけで、いいところに行こうぜ」
「ふざけるな」真剣に立腹した様子で一人が返す。「誰がおまえなんかと」
「僕もごめんだね」もう一人も歯噛みするように言う。「今夜のおまえはどうかしてる。行くんなら一人で行けよ。みんなには黙っといてやるから、どこへでも行って頭を冷やしてこい」
それきり二人は顔を背けて、足早にそこから離脱した。まるで、疫病神から逃れるみたいに。
一人ぽつんと残された男は、周囲の幸福そうな市民たちを卑しい目つきで睨 めつけ、ぶつぶつと恨み事を吐き散らしながら、植込みの並ぶ隅の方へと消えていった。
その数分後、ヘルメットを装着した長身の青年が、それとおなじ方向へ歩き去っていった。その肩は、やはりいくらかしょんぼりとうなだれているように見える。可哀想なテンシュテット。
彼がバイクを起動させた頃には、わたしたちはすでに席を離れて食器類を返却し、川沿いの歩道にまで出ていた。
堤防に肩を寄せるようにして歩きながら、ルータが腕時計を顔の前に持ち上げた。わたしも横からそれをのぞき込んだ。午後十一時。けっこうな時間だ。けれど大晦日を明日に控える夜とあって、街はまだまだ眠りに就く気配がない。というか、まだこれからさらに一 盛り上がりしようかという雰囲気すら漂っている。
そこへ、はらはらと大粒の雪が舞い降りてきた。もったいつけるように地表を舐めていた風も、にわかに強くなった。堤防の向こう、わたしたちの眼下に広がる暗黒の大河に、ざぶざぶと荒い波が踊る。川のそばに暮らすようになって聴き慣れた音色だけれど、こうして夜中に足もとで蠢 くそれを耳にすると、なんだかやけに神経が掻き乱される。まるで、心の裏側を誰かに撫でられているような気分だ。
「あ。これ、返すね」
かぶっていることをすっかり忘れていた帽子を、わたしは石畳に落ちる自分の影の形から思いだして、ひょいと持ち上げた。
その手をルータが抑えた。
「いいから、うちに着くまでかぶっといでよ。案外あったかいだろ?」
わたしは腕を降ろした。「うん」
「けっこう降ってきたね」手のひらで雪を受けながら、イサクが天を仰いだ。「こっから歩いたらどれくらいで帰り着くかな」
「さてね」ルータが鼻から白い息を吹く。「でも川を伝って行けば、案外近いんじゃないか。きっと気付いた時には家の前、さ」
「かな」イサクはポケットに両手を突っ込む。「ラモーナたち、今頃どうしてるんだろう」
「たしか明日も公演があるのよね」わたしが言う。「だったら今夜のところは打ち上げもそこそこに、みんなもう引き揚げて――」
そこでわたしは言葉を切った。
熱く鋭い馬の嘶 きが、突如として通りに響き渡ったからだった。
ぎくりと身を震わせて、わたしたちは立ち止まった。
そんなに遠くじゃない。
馬車を曳 く馬には違いないだろうけど、街に慣れた馬があそこまで喉を引き攣 らせるなんて、そうそうあるものじゃない。まるで、戦場で矢を受けた軍馬の放つ叫びみたいだ。
「なにかしら……」
わたしがつぶやき、前を睨んだ、その矢先。
今度は人間の女性の悲鳴が、警笛さながらに街の夜空を貫いた。
直後、悲鳴の生じた方から――つまりこの堤防沿いの歩道の、わたしたちが足を向けるまさにその先の方から――、ほんの何分か前に耳にしたばかりの乗り物の駆動音が、ぎりぎりと地面を削る車輪の音を伴って、こちらへ向かって急接近してきた。
通行人や馬の御者たちから驚嘆や非難の声を浴びせかけられながら疾駆するのは、誰あろう、テンシュテットその人だった。
猛烈な速度で突き進むバイクにまたがって、彼はあっという間にわたしたちの横を通り過ぎていった。
その刹那、わたしは視覚の精度を能 う限りのところまで高めた。
まるで走馬灯のように、わたしの目が捉える映像の全貌が、その推移が、隅々 まで鮮明に明らかになる。
わたしは青年を見る。
ゴーグルとマフラーの隙間に覗 く彼の顔面は、今や砂のように生気を失っている。
瞳は恐怖と絶望に凍り付き、唇はまるで舌を噛んで自決せんとする人のように、厳しく痛切に結ばれている。
ハンドルを握る彼の手は、速度を減衰させるためにきつく絞られると同時に、甲に浮き出た血管が破れてしまいそうなほど渾身の力で、ブレーキを握りしめている。
暴走するバイクの、ブレーキを。
けれど、それは今、機能していない。
車輪の回転速度も、いったいどういうわけか、まったく減 じる気配がない。
彼が必死に人や馬車や自動車を避けながら突き進む先には、あの公園のすぐ横を流れていた用水路が横たわっている。ちょっとした川と呼べそうなほど幅も深さもあるそれは、まさに支流さながらにタフィー川から枝分かれてして市街地の奥の方へと続いている。それを越えて向こう岸へ渡るための橋は、公園の角を直角に曲がって数十エルテムほど進んだところに見えている。しかしもうあの速度では、とてもそこを曲がりきることなど不可能だ。たとえ試みたところで、操縦者だけでなく、その経路上にいる通行人の多くも、必ずや巻き添えにしてしまうだろう。それが事前に予測できて、あの青年がその手段を選択するわけがない。自分以外の身に決して危険が及ばない道を、彼はなんとしてでも選ぶだろう。彼はそういう人だ。
必然として、そして選び取られた運命の結果として、怒涛の如く回転する死の車輪は、用水路沿いに張り巡らされた背の低い鉄柵に、潔 く正面から激突した。
砲弾が炸裂するような轟音と共に、車体は丸ごと空中へ弾け飛んだ。
そしてそのまま、夜闇の底を這う暗き流れの真っ只中へと、落下していった。
周囲から、街全体が震えるような悲鳴と叫び声が、いくつも立て続けに湧き起こった。
騒動に気付いた誰もが事故現場に目を向けるなか、わたしとイサクだけは、じっと両目を細めて空を睨んでいた。
ルータは、バイクと鉄柵が接触する寸前に、人知れず堤防を飛び越えて川へ降りていた。
「お~い、テン!」ベームが大きな手を突き挙げてぶんぶんと振る。「こっちだ、こっち」
「遅くなってごめん」息を弾ませてテンシュテットは詫びる。「間に合ってよかった。もうみんな帰っちゃったんじゃないかと思ったよ」
「んなわけないでしょ」例の
「……そうか」ふっと苦笑して、テンシュテットは椅子に座った。「美味そうだなぁ。これ、食べてもいいか?」
「食え、食え」皿をごりごりと押しやって、ベームが気前よく言う。
この時わたしの頭のなかでは、先ほど耳にした「おたくの隊長」という言葉が引っ掛かっていた。
あの酔っ払いにとっても、今はテンシュテットこそが自分の部隊の隊長であるはずなのに、まるでそれをそれとして認めはしないとでも言いたげな含みがあった。
ふと、わたしは思いだす。
いちばん最初に、ルータが彼らの姿を目撃した時の現場の状況を。
レーヴェンイェルムは、銃の扱いをとちった若い隊員のことを「テンシュテットの部隊の者」と呼んでいたという。推察するに、今回特別に編成されたという妖精郷探索隊の面々は、平時は別々の部隊に所属している兵士たちなのだろう。そしてその各隊から隊長と
「なんだよおまえ、よく食うなぁ」ベームが呆れて笑う。「ルチアちゃんの学友家族会にお呼ばれしたっていうから、
「いや、店はもちろん良いところだったよ」もぐもぐと口を動かしながらテンシュテットは言う。「でもやっぱりどうも、ああいう集まりは緊張しちゃってね」
「あら。案外
うぶ
なところあるのね、隊長さんって」卓上でワインの瓶に
「それで、ルチアちゃんは元気にしてたか?」ベームがグラスを傾けつつたずねる。
「元気も元気。この街へ来てからますます調子付いてるみたいだよ、あいつ」
「はは、そいつぁいい。青春だなぁ」
「中佐の妹さん、いつまでこっちにいるんれす」
さらにグラスを重ねてさらに酔いの進んだ先の男が、歯の噛み合わせ方を忘れてしまったみたいにだらしない口調で絡む。
相手を一瞬じっと見据えて、テンシュテットはこたえる。
「来月までだね。うまくいけば、年明けの合同軍事演習が終わった後、僕らとほぼおなじ時期に帰国という運びになりそうだ。……というか、きみ。そんなに呑んで平気か?」
「なに言ってんれす」
嘲笑混じりに声を荒げて、男は勢いよく身を乗り出す。そしてワインの瓶をつかみ、
「もうっ! なにするのよ」
しかし男はそちらに目もくれずグラスを掲げ、唇にべったりと押し当てて一気に煽る。そして熱い息を吐く。
「留学。りゅう、がく。いいよなぁ。羨ましいったらない。……あのねぇ、俺も、軍に志願する前にはね、そういうのにずいぶん憧れたもんだったれす」
額に手のひらを当てて、ベームがやれやれとかぶりを振る。しかし男はまるで意に介すことなくまくしたてる。
「あ~、ちくしょう。俺んちにも金と家柄があったらなぁ。そしたらもっと人生違ってたでしょうよ。そしたらあんな、あんなくそったれの森なんかをうろつくこともなく、今頃はどっかの小洒落た店で――」
「もうよせ」テンシュテットが冷静に一声発した。嫌悪も怒気も込めず、ただ純粋にたしなめることだけを目的とした語気だった。「その辺にしとくんだね。明日に響くよ」
「かまやしない!」
言い返す男の声は
「呆れたもんだな、まったく」ベームが言い放つ。「上官の寛大さに甘えるのもほどほどにしろよ。さっきおまえが口にした言葉は取り消せ」
「ことば?」男は首をひねる。まるで
「とぼけるな。おれはテンのように甘くないぞ。人が己の努力と決意によって選び取った道を、財力や家名で買収したかのように言ったことだ」
ぱちぱちと両目をしばたたかせて、男はひるむことなく笑顔を浮かべる。
「え? そうじゃないんすか?」
「おまえ……」
「だって、ほんとのことじゃないですか」またもや手を強引に払って、男は唾を飛ばす。「結局、世のなか金じゃないですか。そして恵まれた環境や、容姿や、才能じゃないですか。どこ行ったってそうだ。軍隊だけは違うだろうと思って来てみりゃ、やっぱりここも
ベームはもうため息すらつかず、これ以上は不味くて呑めないといったふうにグラスを手の甲で押しのけた。そして酔漢とおなじ側の席で一人静かに呑んでいる男に呼びかけた。
「ヤッシャ、おまえんとこの部下だろ。なんとか言ってやってくれ。おれはもう喋る気もしない」
「なんとかってなんだ」レーヴェンイェルムはそっとグラスを置き、平板な目つきでベームを見やる。「私になにを期待している」
「この野郎……」ベームはにやりと笑う。「しらばっくれやがって。部下の失言の責ってのは、上官が――」
「現在は国王陛下直々の命によって平時の部隊より当探索隊の任務を優先するよう仰せつかっている」遮って彼は述べる。まるで文書でも読み上げるようにすらすらと。「よって、この者の上官は今は私ではない」
テーブルを囲む全員が、ぴたりと身動きを止めるのが感じられた。
息さえも潜めて、みなが一人の青年に視線を集中させているようだ。
けれど、テンシュテットはなにも言わない。
たぶん、彼はなにか言うべきだったのだろう。
でも彼は、
静やかな手つきでワイングラスの脚を摘まみ、それに水差しから冷水をほんの少しだけ注いで、味わうようにゆっくりと呑み込んだ。それだけだった。
うん、それが賢明だね、とわたしも思う。今はなにを言ったところで、有益で建設的な会話は成立しない。正気を失うことでしか自分の本音や不満を言葉にできない人間が相手では、絶対にまともな議論は成立しない。
沈黙を破ったのは、また意外にも、レーヴェンイェルムだった。
「……それに、これはまぁ、一つの個人的な意見だがね。先ほどこの者が語ったことは、ある程度までは真実なのではないかな」
「なんだよそれ」すかさずベームが食ってかかる。「おまえ、酔ってるのか」
「別に酔ってなどいない」
「酔ってるさ」その広大な背中をぐっと反らせて、ベームは男たちを見おろす。「冗談も大概にしろよ、おまえら。テンやルチアちゃんがどんなにひたむきに頑張ってきたか、おれはずっと近くで見てきた。みんなだって、それくらい知ってるだろ」
「私はここにいる誰よりも貧しい家の出身だ」しかし取り合わず、レーヴェンイェルムは
「どぉなんすか、レノックス中佐」例の酔いどれがいきり立った。思いがけず虎の威を借りられたことで、その声と表情には勝利感が
「……人はそれぞれに生き辛さを抱えているものだよ」詩の一節でも詠むように、テンシュテットがつぶやいた。「どんな境遇にある者にも、その当人にしか知りえない苦しみがある」
「そうだね」レーヴェンイェルムが微笑する。「辛さ、苦しさ、哀しさ、悔しさ、誰もがみな抱えている。だが、不当に苦渋を
「あ~あ~……みっともない」溜め込んでいた嘆息をどっと放出して、ベームは飲みかけのグラスをやけっぱちに空にした。「士気低下もいいところだな。この途方もない馬鹿げた任務も、やっとこさ大詰めに差し掛かろうかというところだってのに。……みんな、今夜はもうお開きにしよう。宿に帰るなりどこかで飲み直すなり、好きにしてくれ」
その一言を受けて、内心は一刻も早くこの場から離れたいと思っていたに違いない隊員たちが、一斉に席を立った。そのなかにはテンシュテットの姿も含まれていた。テーブルに残っているのは、ベームとレーヴェンイェルムとアトマ族の女性、そして悲惨なほど酒に呑まれてしまったあの男だけだ。
見かねた別の隊員が二名、酔いの回った同僚を無理矢理に抱えて立ち上がらせた。
「なんだよ、ちくしょう」唇を歪めて酔っ払いは毒づく。そしてねっとりとした目つきでレーヴェンイェルムを見おろす。「レーヴェンイェルム隊長は、まだ帰んないすか」
「ああ。酒や
「じゃあ、俺も付き合いま……」
「おまえは帰れ!」しっしっと乱暴に手を振って、ベームが跳ね
「ではお先に失礼します」酔漢を立たせた一人が手早く敬礼をした。「ほら、行くぞ。もういい加減にしろよ」
かくして鼻つまみ者は連れ去られた。上官たちは、しばしその背中を見送った。
「じゃ、僕も行くよ」テンシュテットがヘルメットを抱えながら、残った三人に告げた。
「すまなかったな。酷い思いさせちまって」ベームが力無くかぶりを振る。
青年はほほえみ、首を振る。「なぜきみが謝るの。ま、こんな日もあるよ。……きっとみんな、疲れてるのさ」
こくりとうなずき、ベームは寛容なる隊長の顔を見あげた。
「おやすみ、テン」
「おやすみ」
「じゃあまた明日~」アトマの女性がぺらぺらと手を振った。
レーヴェンイェルムは口を開かない。ただ顎を少し引いただけだった。
わたしたち三人も、男たちの茶番劇を視聴しながら、とうに食事を終えていた。グラスやジョッキも綺麗に空だ。けれどすぐには席を立たなかった。今しばらくのあいだ、周囲の音声を注意深く拾い続けた。
あの酔った男は、大樹の傘から出たあたりで、肩を貸してくれていた同僚たちをぞんざいに払い除けた。
「離せよ。俺はそんなやわじゃねぇったら」男は舌足らずに
「ふざけるな」真剣に立腹した様子で一人が返す。「誰がおまえなんかと」
「僕もごめんだね」もう一人も歯噛みするように言う。「今夜のおまえはどうかしてる。行くんなら一人で行けよ。みんなには黙っといてやるから、どこへでも行って頭を冷やしてこい」
それきり二人は顔を背けて、足早にそこから離脱した。まるで、疫病神から逃れるみたいに。
一人ぽつんと残された男は、周囲の幸福そうな市民たちを卑しい目つきで
その数分後、ヘルメットを装着した長身の青年が、それとおなじ方向へ歩き去っていった。その肩は、やはりいくらかしょんぼりとうなだれているように見える。可哀想なテンシュテット。
彼がバイクを起動させた頃には、わたしたちはすでに席を離れて食器類を返却し、川沿いの歩道にまで出ていた。
堤防に肩を寄せるようにして歩きながら、ルータが腕時計を顔の前に持ち上げた。わたしも横からそれをのぞき込んだ。午後十一時。けっこうな時間だ。けれど大晦日を明日に控える夜とあって、街はまだまだ眠りに就く気配がない。というか、まだこれからさらに
そこへ、はらはらと大粒の雪が舞い降りてきた。もったいつけるように地表を舐めていた風も、にわかに強くなった。堤防の向こう、わたしたちの眼下に広がる暗黒の大河に、ざぶざぶと荒い波が踊る。川のそばに暮らすようになって聴き慣れた音色だけれど、こうして夜中に足もとで
「あ。これ、返すね」
かぶっていることをすっかり忘れていた帽子を、わたしは石畳に落ちる自分の影の形から思いだして、ひょいと持ち上げた。
その手をルータが抑えた。
「いいから、うちに着くまでかぶっといでよ。案外あったかいだろ?」
わたしは腕を降ろした。「うん」
「けっこう降ってきたね」手のひらで雪を受けながら、イサクが天を仰いだ。「こっから歩いたらどれくらいで帰り着くかな」
「さてね」ルータが鼻から白い息を吹く。「でも川を伝って行けば、案外近いんじゃないか。きっと気付いた時には家の前、さ」
「かな」イサクはポケットに両手を突っ込む。「ラモーナたち、今頃どうしてるんだろう」
「たしか明日も公演があるのよね」わたしが言う。「だったら今夜のところは打ち上げもそこそこに、みんなもう引き揚げて――」
そこでわたしは言葉を切った。
熱く鋭い馬の
ぎくりと身を震わせて、わたしたちは立ち止まった。
そんなに遠くじゃない。
馬車を
「なにかしら……」
わたしがつぶやき、前を睨んだ、その矢先。
今度は人間の女性の悲鳴が、警笛さながらに街の夜空を貫いた。
直後、悲鳴の生じた方から――つまりこの堤防沿いの歩道の、わたしたちが足を向けるまさにその先の方から――、ほんの何分か前に耳にしたばかりの乗り物の駆動音が、ぎりぎりと地面を削る車輪の音を伴って、こちらへ向かって急接近してきた。
通行人や馬の御者たちから驚嘆や非難の声を浴びせかけられながら疾駆するのは、誰あろう、テンシュテットその人だった。
猛烈な速度で突き進むバイクにまたがって、彼はあっという間にわたしたちの横を通り過ぎていった。
その刹那、わたしは視覚の精度を
まるで走馬灯のように、わたしの目が捉える映像の全貌が、その推移が、
わたしは青年を見る。
ゴーグルとマフラーの隙間に
瞳は恐怖と絶望に凍り付き、唇はまるで舌を噛んで自決せんとする人のように、厳しく痛切に結ばれている。
ハンドルを握る彼の手は、速度を減衰させるためにきつく絞られると同時に、甲に浮き出た血管が破れてしまいそうなほど渾身の力で、ブレーキを握りしめている。
確かに
、ブレーキを
、握りしめている
。暴走するバイクの、ブレーキを。
けれど、それは今、機能していない。
車輪の回転速度も、いったいどういうわけか、まったく
彼が必死に人や馬車や自動車を避けながら突き進む先には、あの公園のすぐ横を流れていた用水路が横たわっている。ちょっとした川と呼べそうなほど幅も深さもあるそれは、まさに支流さながらにタフィー川から枝分かれてして市街地の奥の方へと続いている。それを越えて向こう岸へ渡るための橋は、公園の角を直角に曲がって数十エルテムほど進んだところに見えている。しかしもうあの速度では、とてもそこを曲がりきることなど不可能だ。たとえ試みたところで、操縦者だけでなく、その経路上にいる通行人の多くも、必ずや巻き添えにしてしまうだろう。それが事前に予測できて、あの青年がその手段を選択するわけがない。自分以外の身に決して危険が及ばない道を、彼はなんとしてでも選ぶだろう。彼はそういう人だ。
必然として、そして選び取られた運命の結果として、怒涛の如く回転する死の車輪は、用水路沿いに張り巡らされた背の低い鉄柵に、
砲弾が炸裂するような轟音と共に、車体は丸ごと空中へ弾け飛んだ。
そしてそのまま、夜闇の底を這う暗き流れの真っ只中へと、落下していった。
周囲から、街全体が震えるような悲鳴と叫び声が、いくつも立て続けに湧き起こった。
騒動に気付いた誰もが事故現場に目を向けるなか、わたしとイサクだけは、じっと両目を細めて空を睨んでいた。
ルータは、バイクと鉄柵が接触する寸前に、人知れず堤防を飛び越えて川へ降りていた。
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