55 いつか、また

文字数 2,580文字

 あらゆる方角の地平線が濃い闇に包まれていて、どちらへ目をやっても肉眼ではほとんどなに一つまともに見えない。向こうにぽつんと立っている樹木のシルエットらしきものは、もしかしたらわたしの知らない巨大な(つの)を持つ新種の獣かなにかかもしれない。あるいは樹木に擬態している亡霊か、死神のたぐいかもしれない。そんなことはありえないとは言いきれない。
 じっくり耳を澄ますと、彼方からさまざまな響きが伝わってくる。
 そこには、この国の(たましい)たる森の律動があった。
 北の最果てに広がる、海原のうねりがあった。
 そして、大地をどこまでも深く切り裂く、あの大峡谷の咆哮(ほうこう)があった。ここから西の方角だ。
 谷は本当に、()えていた。せわしなく、神経症的に、かつ、どこかしら嘲笑的に。そこで(たけ)る風の音色には、情けや温もりのようなものがまるで感じられない。音のなかに情感というものが見出せない。どんなに聞き耳を立てても、この音楽の調性はうまく聴き分けることができない。無調性の音楽は、時に短調のそれより、よっぽど不気味に聴こえる。
 馬車を降りると、わたしたちはわずかに距離をあけて正面から向きあった。というのはつまり、人間と、人間ならざる血族の者たちとに別れて、ということ。
「テン。ありがとう」
 今いちどルータは告げた。彼の両腕には、地面と平行に横たわる老師の身体が抱えられている。二人のその姿はまるで、終極を迎える場面を描いた一幅(いっぷく)の宗教画のように見える。老師には、まだかすかに息がある。
 手綱を握りつづけた手を揉みほぐしながら、青年はにこりと笑った。その様はまるで、名高き聖人を描いた肖像画のようだった。
「お役に立つことができて、光栄だよ」彼は言う。「……それにさ、困っている友だちを助けるのは、当たり前のことだろ」
 ルータはくすっと笑う。そして機嫌の良い猫みたいに両目を細めて、うなずく。
「本当に助かったわ」わたしは自分の胸の中心に手を添え、青年に向かって深く一礼した。「あなたのこと、一生忘れない。きっとこの先いつまでも、感謝しつづける」
 青年は照れ隠しに、鳥打帽のつばを指先でちょいと傾ける。
 ふいにイサクが、風に背中を押されたみたいに、ふわりと前へ跳躍した。
 そして、手のひらに包んだ大切ななにかをおとなにあげる子どものような仕草で、片手を青年の方へ差し出した。
 彼は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに誇らしげな笑顔を浮かべて、それをぎゅっと握り返した。
「ありがと」イサクは空を仰ぐようにして、青年の瞳を見つめた。「あなたは、()い人間だった」
 テンシュテットはまた帽子のつばをつまみ、今度はさっきと逆の角度にそれを傾けた。
 こちらに戻ってきたイサクとわたしとで、ルータの両脇から老師のお体を支えた。
 それはまだ、血と肉と骨の顕現物としてのかたちを保っている。まだ、発光も結晶化も始まっていない。
 いっときわたしたちは、老師のお顔にじっと見入った。
 フードやマフラーでほとんどが隠されているけれど、その凛々しい鼻や、透きとおるように白いひげ、眉毛、睫毛、それにやわらかく閉じられた両のまぶたは、ちゃんと見ることができる。なんという、安らかで、優しい寝顔だろう。その無垢なる美しさは、まるで言語に絶する奇蹟そのものだ。
 わたしたちは顔を上げ、静かに息をついて、青年に最後のまなざしを向けた。
「飛ぶのかい」
 彼がたずねた。わたしたちは無言で肯定した。
「……そうか」
 寂しさを少しも隠そうとせず、青年はぐっと目を伏せた。けれどもすぐにまたあごを振り上げて、気前の良い笑顔を見せてくれた。
「くれぐれも、気をつけて。きみたちの無事を、僕は心から祈っているよ。いつまでも、ずっと……」
「僕もだ」ルータがうなずいた。そして妹とわたしの表情をちらりとうかがってから、言い直した。「僕らも、だ」
「いつか、また」
 青年は言って、右手の拳をどんと自分の心臓に押し当てた。
 片手をそっと祖父から離して、ルータもまた握り拳をみずからの胸のうえに置いた。
「ああ。いつか、きっと。また会おう、テン」
 心に重ねた拳を降ろすことなく、青年は大きく息を吸ってうなずいた。
 彼の瞳が凍りついたのは、その次の瞬間のことだった。
「――待って」彼は言った。ささやくように。唇を動かさずに。「まだ飛ばないで。そのままでいて」
 靴底を卵一個ぶんほど地表から浮かせたところだったわたしたちは、すぐに顕術の発動を中断した。そして再び重力に身を委ねた。さくっ、と音をたてて、靴が足もとの雪に沈む。
 そうしないわけにはいかなかったので、わたしたちはゆっくりと背後を振り返り、テンシュテットが刮目(かつもく)しているものの姿をこの目で捉えた。
 今わたしたちが辿ってきたばかりの野ざらしの道を、こちらへ向かって駆けてくる何者かの影がある。
 それは初め、先刻わたしの想像の産物として(えが)き出された亡霊か、あるいは死神が、ついに実体をともなってこの世に(あらわ)れ出てきたものではないかと思われた。
 だけどもちろん、そうじゃなかった。
 それはたしかに、生きていた。生身を持ち、現実の大地を踏みしめて、みずからの意志で動いていた。血潮をたぎらせ、機関車の蒸気のごとく熱い息を、吐き散らしていた。
 道の真ん中を猛進してきた一頭の大柄な黒馬は、わたしたちを警戒するのに必要じゅうぶんな間隔をとって、急停止した。
 一人きりでそれを駆ってきた乗り手は、まるで梃子(てこ)の原理によって射出される砲撃の弾のように空中に踊り出し、こともなげに雪のうえに着地した。相当な勢いがついていたにもかかわらず、彼は地面に手をつくことも、膝をつくこともしなかった。それどころか、ただの少しもよろめきさえしなかった。その身のこなしは、ほとんど寒気(さむけ)がするほどに完璧にして、隙がなかった。この男の抜き差しならない練度を前にすれば、野生の狼や虎の方が、よっぽど可愛げがあるように思える。
 顔色一つ変えることなくすっくと直立すると、男はコートの前側を手のひらでさっと一払いした。そしてこの場の現状を、すばやく克明にその()に映した。
「ずいぶん急ぐんだね」まるで昼下がりのお茶会の席なんかで用いるような口調で、レーヴェンイェルムは言った。「ご友人どうしで、夜の散歩にでも興じているのかな。レノックス隊長――いや、レノックス中佐」
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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